「睡眠を武器にする」―日本で唯一のスリープトレーナーが教える睡眠によるパフォーマンスアップの秘訣とは
■日本でただ一人の「スリープトレーナー」
「睡眠をパフォーマンスアップの武器にする」―。
アスリートに向けてこの言葉を発しているのは、スリープトレーナーのヒラノマリさんだ。スリープトレーナーという名称が聞き慣れないのは当然だ。日本でただ一人であり、名づけたのもヒラノさん本人なのだから。
東京オリンピックで銀メダルに輝き、パリ五輪日本代表にも内定した卓球の平野美宇選手をはじめ、サッカーやボクシング、バスケットボール、クリケットと幅広い競技のアスリートをクライアントに持ち、睡眠のアドバイスでパフォーマンスアップのサポートをしている。
プロ野球界では、藤浪晋太郎選手には阪神タイガース時代から睡眠の指導をし、渡米にあたっては年間契約も結んで異国の地での活躍を支えている。
個人契約だけでない。東京ヤクルトスワローズには球団から招かれ、所属選手に睡眠の講習を複数回にわたって行った。
今、一流アスリートたちは睡眠に着目し、そこにパフォーマンスアップのヒントがあることに気づいている。
「睡眠を武器にする」とは、どういうことなのか?
スリープトレーナーの仕事とは?
注目のスリープトレーナー、ヒラノマリさんに聞いた。
■野球選手の場合
さまざまな競技の選手に関わっているヒラノさんの生活は、その選手のスケジュールとともにある。国内大会ばかりか世界大会、さらにプロ野球のシーズンに入るととくに忙しくなる。
朝はメジャーリーグの試合を見ることから始まり、午後はファームのデーゲーム、夕方からは1軍のナイターに釘づけになる。画面に見入り、「ちょっと足を引きずっている気がするとか、投球フォームが変わったなとか、汗の出方が違うなとか…」と、ちょっとした変化も見逃さない。
テレビやネット配信で見るだけではなく、現地にもたびたび足を運んで観戦する。夏場の屋外球場などは非常に過酷だ。
「去年の夏もめっちゃ日焼けしました(笑)。でも見ないと気づけないことがあるし、暑いと聞いていても、どれほどの暑さかわからないから。現場を見ることはたいせつにしています」。
環境やそれに伴う変化は、睡眠に大きな影響を与える。担当する選手に最適な睡眠法をアドバイスできるよう、見て聞いて感じてあらゆることを把握するよう努めるのがヒラノさんの流儀である。
野球選手と一口に言っても、ポジションによる差異もあるという。「投手でも先発か中継ぎかでもパフォーマンスのピーク時間が違うし、週に1度の登板か毎日ベンチ入りするかによっても違う」。アドバイスの内容は細かく、多岐にわたる。
さらに「睡眠に関わるセロトニンは日を浴びることで分泌が促されるんですけど、日を浴びる時間の違いは大きいんです」と、屋外球場の多いセ・リーグとドーム球場の多いパ・リーグ、またデーゲームとナイトゲームの違いも睡眠に影響すると説明する。
さまざまな要因で睡眠の質や時間が変わり、それがパフォーマンスに関与する。各々の状況に合わせて適切な睡眠法をアドバイスするのがヒラノさんの仕事だ。
■睡眠を武器にするには?
「睡眠には3段階あるんです」とヒラノさん。「『睡眠の改善』『睡眠を味方につける』『睡眠を武器にする』。ただ気持ちよく寝ているだけでは、武器にはできないんです。正しく取り組まないと」。
部屋の温度や湿度、寝具などの環境も重要で、それらは体の深部体温や自律神経に関わってくるという。
「体の内側と外側の両方からのアプローチが必要で、それも選手ひとりひとり違う。その選手の持っている“睡眠の課題”によって、アプローチ法が違うんです」。
武器にできるまでに睡眠の質を高めるには、徹底的にヒアリングをし、睡眠データをとったり、遺伝子検査までしたりする。また、選手個々に性格や状況、生活パターンも違うから、アドバイスの伝え方やタイミングも考慮する。
コミュニケーションをたいせつにし、とことんパーソナルにパフォーマンスアップのサポートを行っているのだ。
■「攻めの睡眠」と「守りの睡眠」
睡眠には「攻め」と「守り」があるとヒラノさんは説く。
「試合で結果を出さなきゃいけないっていうときは攻めの睡眠、ケガしてリハビリしているときや遠征が続いて疲れているとき、ケガを防ぐのは守りの睡眠。両方できるのが睡眠の可能性で、コンディショニングというか戦術的に考えないといけません」。
また、ノンレム睡眠とレム睡眠がバランスよくリズムが整っていることが大事で、「寝入ったときの深い睡眠と朝方の浅い睡はそれぞれ役割が違うので、量も質も必要なんです」とうなずく。
さらに「ナイターからデーゲームのときって、日本にいながらも時差ぼけ状態なんです。藤浪投手とかメジャーリーガーだと、国内でも時差がある。そういうときにどうやって調整するのかは、とても重要です」とも話す。
こういったさまざまな知識は英語の論文を読み込んで勉強し、それをアスリートに響くような言葉を選んで数値なども示しながら伝える。論理的だから、より説得力がある。
自分に適した睡眠を知り、実践することがパフォーマンスアップの武器になる。そのサポートをするのが、スリープトレーナーの仕事なのだ。
■ヒラノさんと睡眠の関わり
ヒラノさんと睡眠の関わりは小学生まで遡る。幼少期をアメリカで過ごしたヒラノさんは小学3年時に帰国したが、文化の違いなどになかなか馴染めず眠れなくなった。
「世の中に『不眠症』という言葉もなく、何をやっても寝れなくてナーバスになりました」。
苦しみは1年ほど続いたが、やがて学校などに慣れてくると眠れるようになった。しかしまた高校、大学と受験勉強で睡眠時間が取れなくなった。今度は眠れないのではなく、能動的に睡眠時間を削って勉強に没頭したのだ。
そこまで勉強する理由が、ヒラノさんにはあった。
ヒラノさんは幼いころから弁護士を目指していた。『名探偵コナン』の影響と、アメリカで妹がいじめに遭ったことが要因の一つだった。
「強くないと生き抜いていけないって子どもながらに感じていて、たいせつな人を守る盾が要るなと。(コナンの登場人物の)蘭ねえちゃんのママが弁護士さんで、すごく勇敢でスマートで、法律っていうものがあれば弱い人を守ることができると思ったんです」。
猛勉強をし、高校も大学も一般受験で合格した。入学後も勉強に打ち込みながら、参考書欲しさにアルバイトにも精を出し、平均睡眠時間は4~5時間。「肌荒れもしていたし、太りやすかった。でも、寝ることって怠けているみたいな意識があったんです」との強迫観念にかられていたと振り返る。
だが、大学4年になったときだ。「気持ちがプツンと切れちゃって…」という瞬間があった。周りと見比べ、「人より秀でているものがない」と感じたときに、弁護士ではなく何か別の“盾”を見つけたいと思った。
「自分が今まで一番たいせつにしてきたものってなんだろうって考えたときに、人間関係だなと思って。帰国したときに苦労はしたけど、やっぱり対人関係が自分の人生の中でたいせつなものだと気づいたんです」。
そこで、進路を人と関わる営業職にと方向転換した。
■就職した会社での睡眠との関わり
大手の家具販売会社に入社し、営業としてショールームで働いた。帰国後もスキルを磨き続けてきた英語力を生かして、海外の大使や外交官にも堂々と応対した。そんな中、海外と日本の睡眠のギャップを肌で感じた。
「日本の経営者の方って睡眠時間が4~5時間で本当に短い。でも海外の方はお忙しいのにちゃんと寝ておられる。スケジュールに睡眠時間を入れて、そこはブロックして会議も何も入れないようにしている。睡眠は仕事の一環なんだよっていう話を聞いたとき、めちゃくちゃ衝撃を受けました」。
睡眠の優先順位の違いに驚愕し、自身がかつて睡眠に悩んだ経験もあって、睡眠について勉強した。寝具メーカーの担当者にも質問を浴びせるなどして、どんどん知見を深めていった。
■スポーツ界で働こうと思い立つ
会社員生活に不満があったわけではない。しかし、どこか物足りなさがあった。営業成績という目標はあっても、それは“夢”ではなかった。本気で夢を追い、かなえるために努力をしてきたヒラノさんの中に、「何か違う」という思いがふつふつと湧いてきた。
そんなおり、クラブワールドカップを見た。2016年の決勝は鹿島アントラーズ対レアル・マドリード戦。「もともとサッカーが好きでよく見ていたんですけど、あの試合はとくに感動して…。日本人がこんなに頑張ってるんだって」。スポーツの力を実感するとともに、過去の記憶がよみがえってきた。
幼いころに暮らしたアメリカで両親から教わった野茂英雄投手の存在や、中学生のころの「ハンカチ王子ブーム」で甲子園を席巻した斎藤佑樹投手への憧れ。
高校1年のときには留学先(アメリカ・オレゴン州)で野球観戦に出かけ、シアトル・マリナーズのイチロー選手のホームランを目の前で見た。「小さな体の日本人が海外の人にこんなにも愛されている。アスリートのオーラはすごい」と感激した。
スポーツやアスリートから受けた感動が1本の線で繋がったのだ。
■ないのなら自分で創ろう
スポーツに力をもらい、スポーツに支えてもらった。
「自分も夢を追ったことがあるからこそ、しんどさやニュアンスがわかる。ストイックに頑張っている人たちの背中を押す、役に立つ仕事がしたい」。
スポーツ界で働こうとおぼろげに考えたが、何がしたいのか、何ができるのかはすぐには浮かばなかった。
考えをめぐらせたとき、ショールームにベッドやマットレスを買いに来るスポーツ選手の姿から「睡眠」に思い至った。睡眠に関しての知識には自信がある。
「栄養やフィジカルの面から選手をサポートする仕事は成り立っているのに、なぜ睡眠だけないんだろう。それならわたしがその第一人者になってやろう」。
そこで「スリープトレーナー」という職業を創り出し、アスリートの睡眠のサポートをしようと決めた。
培ってきた知識に加えてさらに深く勉強し、『睡眠健康指導士』『睡眠環境・寝具指導士』『スリープアドバイザー』など、睡眠に関する資格を取得。その上「睡眠だけじゃフックが弱い」と思い、『スポーツ医学検定2級』『アスリートフードマイスター2級』なども手にした。
だが、この時点でスポーツ界にまったくツテはなかった。
■自ら動き、自ら開拓
そこで自ら動いた。スポーツチームの練習に足しげく通ったり、アスリートのマネジメント会社にアタックしたり、SNSでどんどん発信をしたりしたりと、積極的に行動した。
すると、アスリート個人から問い合わせが入るようになり、サポートを担当するようになると、今度はその選手から口コミで伝わり、選手が選手を呼んで徐々に広がっていった。
また、マネジメント会社からもセミナーの依頼がきたり、メディアでコラムの連載が始まったりもし、2017年に立ち上げて約2年後には、スポーツ界でスリープトレーナーとしてのポジションを確立した。さらに実績を重ねていくと、NPB球団からも選手に対しての講習のオファーが来るようにもなった。
今では担当する多くのアスリートが結果を出し、ヒラノさんに感謝している。そして、その効果は口コミでどんどん広がっている。
当初は、「需要がない」などと周りの人々には大反対された。「門前払いもありましたし、女がスポーツ界で働く難しさもありました」と、たくさんの涙も流した。「『睡眠』という地位が確立されていなかったから」と、理解を得ることに骨が折れた。
だが、ヒラノさんには信念があった。ほかの人には無理でも、自分にはできると信じて貫いた。そこには「スポーツに恩返しがしたい」という強い思いがあったのだ。
■スリープトレーナーとしての自身の使命
人あたりがとても柔らかく、ほんわかと包み込むような温かさを感じさせるヒラノさんだが、その行動はエネルギッシュでパワフルだ。
スポーツ界において、栄養やフィジカルに並ぶパフォーマンスアップの重要なファクターである睡眠。前例のなかった「武器としての睡眠」を提唱し、まさに道なき道を切り拓いてきたパイオニアである。
「日本の選手も睡眠に目をつけたら、もっと強くなれると思います」。
今後は現場のトレーナーや栄養士などとも意見交換しながら、選手の体をさらに深く理解し、よりよい睡眠アドバイスにつなげていきたいと考えている。
「いいときにサポートするのは簡単だけど、悪いときにどうサポートするか、どうやって寄り添うか。そのときベストを尽くしたと思っても、『もっとできたことあったんじゃないかな』って、毎回思うんです。無力さを感じることもある。でも、サポートしている選手が結果を出してくれると、また頑張れる。選手の活躍が一番嬉しい」。
スポーツ界からもらった力を、スリープトレーナーとして還元することが使命だと心得て、ヒラノさんはこれからも睡眠でアスリートをサポートしていく。
【ヒラノマリ*各リンク】
*ホームページ⇒Good Sleep LAB.
*Instagram⇒ヒラノマリ | スリープトレーナー【スポーツ×睡眠】maririn_gram
*X⇒ヒラノマリ@スリープトレーナー【アスリート専門】@sleeptrainer_m3
*ブログ⇒読むだけで寝たくなる!ぐっすり相談室
*YouTube⇒【睡眠の専門家】ヒラノマリの#スリトレちゃんねる