生きてオーストラリア最北の地から帰ったのは一人、バーク・ウィルズ探検隊
オーストラリアは長い間、開拓者の間では未開の地として捉えられていました。
そのこともあって探検が盛んに行われるようになり、今回紹介するバーク・ウィルズ探検隊もその一つです。
この記事ではバーク・ウィルズ探検隊が救助されるまでについて紹介していきます。
生きてオーストラリア最北の地から帰ったのは一人
オーストラリアの広大な大地に静かに立つユーカリの木。ここに刻まれた文字が、バーク・ウィルズ探検隊の悲劇を象徴する運命の目印となりました。
クーリバの木に彫られた「ここを掘れ」("DIG under")という言葉、もしくは「北西3フィートを掘れ」("DIG 3 FEET N.W.")とされる伝言は、まさに彼らの生と死を分けたものだったのです。
この木は、彼らの帰還を待たずして補給隊が去った証であり、数時間の差で救いを逃したバーク、ウィルズ、キングの3人にとって無情な証言者でありました。
クーパー・クリークにとどまりつつも、彼らは先住民アボリジニのヤンドルワンダ族から命をつなぐ糧を得ました。
魚、草の種、そしてナルドゥー(デンジソウの一種)から作られたパン。
しかし、このナルドゥーがまた彼らの運命に暗い影を落とします。
ナルドゥーにはビタミンB1を破壊する成分が含まれており、これを大量に食べ続けた結果、バークとウィルズは次第に脚気に苦しむことになったのです。
1861年6月下旬、バークたちは救助隊を探しにユーカリの木の上流へと向かったものの、ウィルズはすでに体力が限界を迎えていました。
彼はブリーリー・ウォーターホールに残り、少しばかりの食糧と水をもらってそこで待つことにしたのです。
その間、バークとキングはさらに進んだものの、6月28日頃、バークは力尽き、息を引き取りました。
キングは彼の遺体を埋葬し、戻った時にはすでにウィルズも亡くなっていました。
キングは、アボリジニの助けを借りて命をつなぎ、なんとか生き延びることができたのです。
彼の救助は1861年9月11日、クーパー・クリークを訪れたアルフレッド・ハウィットの救助隊によって成し遂げられました。
キングは衰弱していたが生存しており、メルボルンへと戻されたのです。
しかし、探検の精神的苦痛からは決して回復せず、その後結婚したものの、9年後に肺結核でこの世を去りました。
バークとウィルズの死は、オーストラリア中に衝撃を与えました。ビクトリア州政府は委員会を設置し、2人の死を審理します。
1863年1月23日、メルボルンで2人のために州葬が執り行われたのです。
葬儀には40,000人もの人々が集まり、彼らはメルボルン墓地に埋葬されました。
この悲劇的な探検が無駄であったかというと、決してそうではありません。
彼らの犠牲により、オーストラリア内陸部に内海がないことが証明され、さらには複数の救助隊によって広範囲な地理的知識が得られたのです。
そして、キャッスルメインやメルボルンのロイヤル・パークには彼らを讃える記念碑が立ち、1860年8月に探検隊が出発したその場所で、バークとウィルズの勇敢さが今も語り継がれています。
こうして、オーストラリアの未開地を切り開いた彼らの探検は、成功とは言い難いものであったが、その足跡は歴史に深く刻まれているのです。
参考
アラン・ムーアヘッド、木下秀夫訳(1979)『恐るべき空白――死のオーストラリア縦断』、早川書房