【九州三国志】田尻鑑種、龍造寺と島津に翻弄される!謀反と和睦の間で揺れた武将の生涯
田尻鑑種は筑後十五城の一つ、鷹尾城を拠点とする国人領主であり、当初は大友氏に仕えたものの、天正6年(1578年)の耳川の戦い以降、大友氏から離反し、翌年には肥前の龍造寺隆信に臣従しました。
その後、三池鎮実攻めや肥後筒岳城攻めで功績を挙げ、さらに蒲池氏を滅ぼして柳川城を攻略。
これにより隆信から新領地を与えられ、筑後での影響力を強めたのです。
しかし、島津氏が九州で勢力を拡大すると、鑑種は龍造寺を離れて島津義弘に接近。これが彼の運命を大きく揺るがすこととなりました。
天正10年(1582年)、龍造寺と島津の狭間で不信感が高まる中、鑑種は鷹尾城に籠城して謀反を起こし、龍造寺方と対立します。
その後、大友氏と島津氏に援軍を求め、島津からは援軍を得たものの、城は陥落せず膠着状態が続きました。
翌年、秋月種実の仲裁で和睦が試みられるも決裂。
再度攻撃を受ける中、鍋島信生の部下百武賢兼を通じて和談が成立し、鑑種は鷹尾城を明け渡して佐賀郡に移住、新たに領地を与えられることで決着しました。
以降、龍造寺家臣に復帰したものの、島津への接近も続けたため、度重なる裏切りが警戒されるようになります。
秀吉の九州征伐が始まると、龍造寺と島津の間で鑑種の立場はさらに微妙なものとなります。
しかし、征伐が終結する頃には龍造寺家臣としての地位を確立し、鍋島直茂の配下に組み込まれました。
以後、鑑種は鍋島に忠誠を誓い、朝鮮出兵にも随行したのです。
晩年は鍋島麾下の武将として活動し、朝鮮において病没したとされます。
一方、島津側の史料では、鑑種が龍造寺の伏兵に討ち取られたとの記録もあるものの、朝鮮役での活動を裏付ける資料が複数存在するため、この説の信憑性は低いです。
波乱に満ちた鑑種の生涯は、大友・龍造寺・島津という九州三勢力の狭間で揺れる国人領主の宿命を象徴しているかのようであります。