【九州三国志】水郷の柳川を築き、難攻不落の城主となる!義心は鉄のごとく、忠義を貫いた武将
蒲池鑑盛は、筑後十五城の筆頭大名として、1万2千町(約12万石)を領し、筑後国南部を統轄した武将です。
彼は蒲池城に代わって柳川城を改築し、水郷の掘割を縦横に巡らせました。
この堅城は「柳川三年肥後三月肥前筑前朝飯前」と歌われ、九州屈指の難攻不落の要塞として名を馳せることとなったのです。
また、風浪宮の造営なども行い、現在の柳川市の基礎を築き上げました。
父・蒲池鑑久が大友氏によって討たれた後、鑑盛は家督を継ぎ、引き続き大友義鑑・宗麟の二代に仕えました。
戦場では兵法に優れた武将として数多の戦いで功績を挙げ、宗麟からの信頼を得たのです。
さらに、敵対する龍造寺家を危機から救う義心溢れる人柄でも知られます。
家臣団の反乱に遭った龍造寺家兼や隆信を匿い、復帰に尽力。龍造寺隆信が佐嘉城を奪還できたのも鑑盛の支援があってこそでした。
「義心は鉄のごとし」と称される彼の姿勢は、『肥陽軍記』でもその情深い人柄として語られています。
天正6年(1578年)、耳川の戦いが勃発すると、初老で病身の鑑盛は嫡子・鎮漣、三男・統安と共に3千の兵を率いて出陣しました。
しかし、鎮漣は既に大友氏に離心しており、病を理由に2千の兵を連れて柳川へ帰城します。
鑑盛は残された1千の兵と共に戦場に留まり、大友軍が総崩れとなる中でも島津軍の本営への突入を試みて奮戦したが、力及ばず統安と共に壮烈な最期を遂げたのです。
その戦死の様は「湊川の戦いにおける楠木正成の壮烈な最期にも比せられる」と『筑後国史』に記されており、鑑盛の生涯は義と忠誠に満ちたものとして語り継がれています。
菩提寺の崇久寺に残る霊碑には「松梅院殿長國覚久居士神儀」と刻まれ、彼の生き様が今も人々の記憶に息づいているのです。