【九州三国志】立花家の双翼、小野鎮幸の武勇!一騎当千の名将、その壮絶な生涯
小野鎮幸は豊後の大友氏家臣・小野鑑幸の子として生まれ、後に立花道雪の家臣として仕えました。
道雪から軍法「奇正相生」の「奇」を任され、由布惟信とともに「立花双翼」と称されるほどの名将であったのです。
生涯に22度の大戦、多数の小戦に参戦し、67ヶ所の傷を受けながらも戦功を重ね、大友氏や立花家から計68枚もの感状を賜ったといいます。
天正12年(1584年)の沖田畷の戦い後、鎮幸は道雪配下の備隊大将として数々の戦功を挙げ、道雪の死後はその跡を継いだ立花宗茂に仕えました。
宗茂が柳川城主となると、鎮幸は家中で最高の5千石を賜り、次席家老に任命されます。
天正15年(1587年)の肥後国人一揆討伐や文禄・慶長の役にも従軍し、武功を立て「一騎当千」と豊臣秀吉から称えられました。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで西軍についた立花家は徳川方の攻勢を受け、鎮幸は総大将としてわずか3,000の兵で鍋島軍32,000を迎え撃ちます。
10月20日の八院の戦いでは、立花勢の勇猛さが際立ち、先鋒の立花統次や安東範久が鍋島軍の陣深く突撃して奮戦したものの、鍋島方の包囲戦術により次々と討たれました。
鎮幸も本陣で奮闘したが多くの傷を負い、供回りが14、5人になるまで戦い続けた末、立花成家率いる奇襲隊の援護を受けて撤退することに成功したのです。
立花家が改易された後、鎮幸は加藤清正に召抱えられ、宗茂の再興を陰ながら支え続けました。
彼の忠誠心と武勇は、立花家の危機を幾度も救い、その名は後世まで語り継がれたのです。
慶長14年(1609年)、肥後にて64歳で没。立花宗茂が柳川に復帰すると、その子孫は立花家中に戻り、大組組頭兼家老として家名を支えました。