【九州三国志】蒲池鎮漣、大友氏からの独立を志す!龍造寺隆信との確執と悲劇の最期
蒲池鎮漣は、父鑑盛の後を継いで蒲池氏嫡流の家督を継ぎ、柳川城を拠点に筑後国を治めました。
しかし、鎮漣は大友氏への忠義を貫いた父とは異なり、独立志向を強めていったのです。
天正6年(1578年)の耳川の戦いでは3千の兵を率いて大友軍に参加するが、病を装って柳川へ帰還。戦場に残った父と弟統安は討死します。
鎮漣はその後、筑後進出を狙う龍造寺隆信に従属し、協力したものの、やがて隆信と対立を深めていくのです。
天正9年(1581年)、龍造寺隆信は2万の大軍で柳川城を包囲するも、「柳川三年」と戯れ歌に歌われる難攻不落の堅城を落とすことができませんでした。
やむなく隆信は和睦を提案し、娘(玉鶴姫)を鎮漣に嫁がせることを約したのです。
しかし、鎮漣は密かに薩摩の島津氏との接近を図り、この動きを危険視した隆信は、鎮漣の謀殺を決意します。
猿楽の宴への招待という名目で鎮漣を佐賀へ誘い出しました。
鎮漣は当初この招待を固辞するが、母や重臣らの説得を受けて出発します。
兄鎮久や精鋭200名を伴い肥前に向かったが、佐賀に着いた翌日、与賀神社付近で隆信の兵に襲撃されます。
奮戦の末、鎮漣とその郎党は全滅し、自害に追い込まれました。
鎮漣の死を知った隆信は、ただちに柳川の鎮漣一族を抹殺するよう命じ、鍋島直茂の指揮の下、田尻鑑種らが柳川に進軍。
柳川の戦いが繰り広げられ、一族は根絶やしにされました。
この謀殺は多くの疑念と批判を招きました。
隆信の腹心である百武賢兼は涙ながらに「こたびの鎮漣ご成敗はお家を滅ぼす」と出陣を拒否し、鍋島直茂の義甥で討手を務めた石井信忠も、龍造寺氏の将来を憂う言葉を残しています。
蒲池氏の抹殺は、筑後国の国人層の反発を招き、龍造寺氏の衰退の一因となりました。
一方、鎮漣の妻玉鶴姫は、父隆信が夫を殺害したことを知ると実家に戻らず、蒲池氏の支城にて自害します。
現在も「蒲池鎮漣夫人他百八人殉難之地」の石碑が、その悲劇を伝えているのです。
鎮漣の死と蒲池氏の滅亡は、戦国九州の激動の中で忘れられぬ一章となりました。