東日本大震災で活きた航空業務の日頃からの準備と訓練
東日本大震災から13年
今から13年前の平成23年(2011年)3月11日14時46分、三陸沖を震源とした東北地方太平洋沖地震が発生し、東北から関東にかけての東日本一帯で甚大な被害をもたらす東日本大震災となりました。
各地の震度は、宮城県栗原市の震度7をはじめ、福島、茨城、栃木の各県では震度6強を観測し、岩手県大船渡市、群馬県桐生市、埼玉県宮代町、千葉県成田市などでも震度6弱でした。
このため、広い範囲で建物倒壊などの被害があり、関東地方では大規模な液状化が発生しました。
そして、東北地方太平洋沖地震により大きな津波が発生し、東北地方の太平洋側では、高い津波が甚大な被害をもたらしました。
さらに、地震と津波により福島第一原子力発電所事故が発生し、放射性物質漏れが起き、原子力発電所の再稼働問題とあいまって、全国的な電力不足が長期間続きました。
海洋研究開発機構では、地震発生直後に深海調査研究船「かいれい」を宮城県沖に派遣し、海底調査の結果、東北地方太平洋沖地震によって北米プレートが南東から東南東方向へ約50メートル移動し、上方に約10メートル移動していることがわかりました(図1)。
このプレートのずれに伴って海底地形が変化し、陸に近い領域では沈降したため、浸水被害が長期化しています。
大災害が発生すると、人命救助や救援活動のためには、災害実態の素早い把握が不可欠です。
しかし、東日本大震災では、津波によってあまりにも多くの人が被災し、調査すべき自治体等が機能不全に陥ったため、死者・行方不明者が2万人近いことがわかったのは3日後のことです(図2)。
こんな大混乱の中、空の大惨事は免れています。
あわや空の大惨事
東北地方太平洋沖地震が発生したとき、日本上空には多くの飛行機が飛んでいました。
飛行機には安全のため余分の燃料が積んでありますので、地震が発生して滑走路点検などで空港が一時的に閉鎖となっても、上空で空港再開まで待機するか、代替空港へ着陸するために向かうことで、通常は大きな問題とはなりません。
しかし、東北地方太平洋沖地震が発生したときは、事情が全く違い、着陸できる空港が無くなり、多くの飛行機の燃料が無くなって大惨事が起きる恐れがありました。
ただ、仙台空港では、中国国際航空便が地震6分前の14時40分に中国の大連に向かって飛び立ち、地震1分前の14時45分に到着予定の日本航空便は天候不良で到着が遅れていたため、津波襲来時には滑走路上の旅客機がいないという幸運がありました。
そして、仙台空港を地震による津波が襲ったのは、地震の約1時間後の15時56分で、ターミナルビルは3メートルの高さまで冠水し、4月13日までの長期間にわたり、民間機の使用が出来なくなりました。
仙台空港に着陸する国内線だけでしたら、出発空港に戻るという選択肢があります。
しかし、このとき、成田空港の管制塔が倒壊の恐れがあるとして、管制官等の着陸に絶対必要な人々が待避しました。このため、成田空港は一時的な閉鎖ではなく、無期限の閉鎖を宣言せざるをえなくなりました。
国際線の飛行機は大型機が多いために長い滑走路を必要とし、代替できる空港が限られていますし、出発空港に戻る燃料は積んではいません。
このため、多くの機が代替空港として羽田空港を目指しました。しかし、1時間に60機以上が離着陸する羽田空港では、地震による点検のため一時的な閉鎖があっただけで、上空に沢山の飛行機が待機していました。
この飛行機を下ろすだけで精一杯で、成田空港に向かっていた国際線の飛行機のうち数機を受け入れただけで満杯となり、羽田空港もすぐに閉鎖となりました。
成田空港と羽田空港に向かっていた国際線の80機以上が、燃料が少なくなった状況で日本上空をさまよいましたが、関西国際空港に21機、中部国際空港に17機、新千歳空港に14機、そして、普段は使わない横田基地に11機など、各地の空港になんとかふりわけて着陸する航空管制を行って、最悪の事態を乗り切りました。
筆者は、東北地方太平洋沖地震発生時には、東京航空地方気象台の台長として総務課事務室にいました。中学生のときに新潟地震を新潟で、神戸海洋気象台予報課長のときに兵庫県南部地震を神戸で経験していますが、このときの地震は、これらと比べて、揺れが長く続いているという印象を持ちました。
勤務時間内の地震で、管理職が全員職場にいたこともあり、あらかじめ定められているとおり、仙台航空測候所の代行業務や職員家族の安否確認作業などがただちに行われました。
台長として何かを指揮するまでもなく、各課長が率先して作業を行い、適宜報告をあげていましたので、兵庫県南部地震などのときに比べると、気持ち的にはかなり余裕があったように思います。
仙台空港が津波にのまれ始めた16時までには、予報課では仙台空港測候所が行っていた東北地方の4空港(仙台、青森、秋田、福島)の予報業務を代行していました(写真1)。
また、予報課・観測課の当日夜から翌日にかけての当番者は、当番組み替えで確保していました。その時点の安否確認では、職員及び職員の家族は無事でした。
帰宅困難になる職員がどれくらい発生するかは不明でしたが、水や食料の備蓄があり、それをいつでも使えるように総務課の部屋に並べましたし、庁舎を管理している航空局東京空港事務所へ依頼して夜も全館暖房で話がついていましたので、帰宅困難者が多くなってもなんとかなりそうに感じました。
日頃からの準備と訓練
大きな災害が発生したとき、普段の業務の適否が問われると思っていましたが、東京航空地方気象台は、普段の業務がしっかりしていたと思います。
なかでも、半年前に現業室の模様替えを行い、複雑に増えていた通信機器のモデム等をラックにきちんと収納し、一角に集めたことは大きかったと思います。これによって現業室に代行業務と新人訓練を行うためのスペースが生まれました。
もし模様替えを行わなかったとしたら、通信機器が地震によって散乱し、通信障害となった可能性がかなり高かつたと思います。
倒壊のおそれがあるとして成田空港の管制塔から職員が降りて成田空港が長時間閉鎖となりましたので、過密の羽田空港が気象情報が提供できないことによって閉鎖になれば、着陸を待っている燃料が無くなった多数の航空機に不測の事態が生じたと思います。
また、代行業務用の専用スペースは、羽田空港の本来業務に全く影響を与えずに作業でき、ミスを生じさせる可能性を低くしていたと思います。
さらにいえば、一週間ほど前に、仙台航空測候所に対する代行訓練を行ったばかりでした。
訓練は気象業務だけではありません。
航空管制業務も、地震前日の3月10日に東京航空管制交通部で羽田空港の滑走路閉鎖を想定し、上空の飛行機をいかに安全に降ろすかという訓練が行われていました。
これらの訓練が地震の直前に行われていたことは偶然ではありません。
気象業務や航空管制業務だけでなく、航空に関するすべての業務は、安全運航のため、毎年のように、いろいろなことを想定した訓練が行われているからです。
つまり、航空業務は、いつ想定外の事態が起きても、そのときに備えての訓練を受けたばかりの多くの人が業務を行っているということができます。
東北地方太平洋沖地震がこのときに発生するということは想定外であっても、何かの原因で急に空港が使えなくなったときを想定した日頃からの準備や訓練は、東北地方太平洋沖地震により空港が使えなくなったときの対応にそのまま活かされました。
東日本大震災前の巨大地震の認識
東日本大震災をもたらした東北地方太平洋沖地震は、貞観11年5月26日(869年7月9日:ユリウス暦)に発生した貞観地震津波以来の巨大地震といわれています。
政治経済の中心である京都から遠く離れた所の出来事の記録はほとんど残されていないのですが、貞観地震津波のことは、かなり残されています。
百人一首に「ちぎりきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波こさじとは」という歌があります。三十六歌仙の一人というより、清少納言の父であることで有名な清原元輔の歌で、数少ない女性の心変わりを思う男の歌です。
ここでの「末の松山」は、宮城県多賀城市八幡にある、末松山宝国寺の本堂の後ろにある小さな丘で、内陸部まで貞観地震津波が襲ったときでも被害を受けなかったことで有名な場所でした。
清原元輔は貞観地震津波を経験した世代ではありませんが、生々しい話は十分語り継がれていると思われ、この歌を当時の人は、「(著者意訳)お互いに泣いて、涙に濡れた着物の袖を絞りながら約束したのに、あなたは心変わりをしてしまった。貞観地震津波という地球が壊れるような天変地異が起き、内陸部まで津波が襲っても波を被らなかった「末の松山」を、波が越えることは絶対にありえないように、あなたを思う心は決して心変わりをしない」と受け取ったと思われます。
しかし、貞観地震津波の伝承が薄れ、内陸部にあって海の波との関係がイメージできないこの場所は、古の歌にゆかりの場所を訪れる歌人が時と共に減っています。
元禄2年5月8日(1689年6月8日)に、松尾芭蕉がこの地を尋ねていますが、特に感動を記録していません。
また、明治26年(1893年)7月30日に正岡子規は近くを通っており、本意はよくわかりませんが「末の松山も同じ擬名所にて横道なれば入らず(「はて知らずの記」より)」とし、訪れていません。
ただ、東日本大震災の津波が多賀城市を襲ったとき、「末の松山」の松の後継樹である樹齢約480年の松がある小山は、やはり「波こさじ」でした(写真2)。
大きな災害があっても、時代と共に教訓は風化していますが、それでも教訓を見直す機会があります。
例えば、東日本大震災の1年前、平成22年(2010年)6月には、産業技術総合研究所が仙台平野のボーリング調査の結果から、貞観地震津波はマグニチュード8.4程度の巨大なもので、過去には500年~1000年周期で大津波が襲って仙台平野や石巻平野の広い範囲が浸水したと推定しています。
しかし、この産業技術総合研究所の研究も東日本大震災では活かされませんでした。
東日本大震災の教訓が風化しつつあるということが言われています。
しかし、貞観地震津波の例のように、長年にわたって教訓を残すということは非常に難しいことです。
教訓が風化しないための努力が大切なことはいうまでもありませんが、航空業務のように、普段の生活、普段の仕事の中にこの教訓を入れ続けるというのが大切ではないかと思います。
東日本大震災のような地震に対する準備と訓練は、発生原因は全く違うものの、発生後に生じることが似ている台風や集中豪雨など、多くの災害に対して役立つと思います。
図1、図2、写真1の出典:饒村曜(平成24年(2012年))、東日本大震災―日本を襲う地震と津波の真相―、近代消防社。