「鈴鹿8耐」の父、天国へ。〜バイクの祭典を作った偉人、藤井璋美〜
2015年11月23日、モータースポーツ界の偉大なる人物が静かに息を引き取った。藤井璋美(ふじい・てるよし)、享年86歳。バイクレース通を自称するファンでもこの方の功績を詳しく知る人は少ないかもしれない。
12月20日(日)に鈴鹿サーキットのラウンジで行われた『藤井璋美氏 旅立ちの会』には、世界GPで優勝経験があるレーシングライダーであり現在はSUPER GTチームの監督である高橋国光氏をはじめとする往年の名選手ら錚々たる面々150名以上が集まり、故人の想い出を語り合い、功績を讃えた。
藤井氏は日本のモータースポーツ界の発展に情熱を注ぎ続けた偉大な人物である。特に今年で38回目の大会を迎えたオートバイの「鈴鹿8時間耐久ロードレース(通称、鈴鹿8耐)」の立ち上げに尽力したことは故人の大きな功績といえる。今も続く鈴鹿8耐の11時30分スタート、19時30分夜間走行の後にゴールという8時間のレース形式は藤井氏が産み出したアイディアなのだ。今回の記事ではケーブルテレビ局の番組制作のために収録したインタビューのコメントを基に鈴鹿8耐誕生のエピソードをご紹介したい。
鈴鹿8耐の父はホンダの元グランプリライダー
昭和4年(1929年)東京に生まれた藤井璋美は若い頃、プロのオートレース選手として活躍。日本のモータースポーツ黎明期の代表的レース「浅間火山レース」が始まった頃、プロライダーへの転身を夢見て、レース活動を盛んに行っていたホンダの創業者、本田宗一郎に熱烈なアプローチをしたという。
藤井璋美「当時は今みたいにエンジンが自由に手に入る時代じゃないから、泣きついて、お借りしたんだよね。(本田宗一郎は)なかなか会えない人だから10日間くらい追っかけ回して、夜明けから一生懸命待ってようやく捕まえて。本田宗一郎が朝霞研究所から八重洲の営業所に行く車に乗せてもらって、話をして、何とか面倒見てやるよと言ってもらったのがキッカケ。それからずーっと縁があってホンダってことになったんだよね」
熱意で本田宗一郎を口説き落とした藤井璋美は昭和34年(1959年)にホンダの嘱託ライダーに。そしてホンダスピードクラブのライダーとして浅間火山レースに出場し、優勝も飾った。さらに昭和36年(1961年)、マレーシアのジョホールバルで開催された「ジョホールGP」では「ホンダ2RC143」を駆り優勝。ホンダが2輪世界選手権で初のチャンピオンを獲得する礎を作る一人となった。
『藤井璋美氏 旅立ちの会』の会場ではその時の優勝カップなど想い出の品々が展示された。そして、高橋国光氏は「藤井さんは憧れの先輩でした。そして、家族で鈴鹿に移り住み、日本のモータースポーツの発展のために頑張ってこられた頭の上がらない大先輩です」と語り、故人の偲んだ。
ライダーを育成する立場に。黎明期を支えた人。
昭和37年(1962年)9月に、日本で初めての本格的なサーキットとして「鈴鹿サーキット」が三重県・鈴鹿市にオープン。藤井璋美は本田宗一郎からバイクレースの普及のための役割を任せられ、「鈴鹿サーキット専任講師」に就任。家族を連れて鈴鹿市に移り住み、黎明期のレースを主催し、ようやく産声をあげたばかりの日本のモータースポーツ界の発展を縁の下から支えた。
鈴鹿サーキットは今でこそ、その名が世界に知られるサーキットだが、設立間もない1960年代、70年代はまだ「モータースポーツの聖地」とは認識されていなかった。70年代の石油危機の影響で自動車メーカー、バイクメーカーが主だったレース活動を自粛。華々しくオープンした1周6kmのレーシングコースでは全日本選手権と参加型のアマチュアレースが開催されるのみで「世界GPロードレース」「F1世界選手権」などの国際レースが開催されるのは1980年代になってからのことである。
その大きな転機となったのが昭和53年(1978年)の第1回「鈴鹿8耐」の開催だ。藤井璋美が作った「テクニカルスポーツクラブ」は鈴鹿のバイクレースを多数主催していたが、1970年代後半、ようやく企業がモータースポーツ活動を再開した時代に観客を集められるビッグイベントの開催を模索する。耐久レースの開催を目指し、24時間、12時間、6時間などの耐久レースが候補にあがった。そして、藤井璋美は新しいレースの創生を目指し、ヨーロッパとアメリカに視察に旅立った。
鈴鹿8耐の誕生秘話
藤井璋美は視察先のアメリカで、「鈴鹿8耐」のルーツとなる運命的なイベントに出会うことになる。それはアメリカではごく普通に開催されている「スタジアムモトクロス」。野球場に土を盛ってコースを作り、バイクを走らせるモトクロスのレース(スーパークロス)だ。
藤井璋美氏「1日に予選と決勝をやるレース。昼間はダラーっと暑い中で予選を見ているからよ、緊迫感がないわけ。それが夜の決勝レースの時間になると球場のナイター用のライトをパーッとつけて、それでやると物凄く映えたわけ。あっ、これだと。絶対これだ!と。そう思って(日本に)帰ったわけ。それで、なんとかライトを点けて走る時間をレースの中に組もうと。それでいろいろ考えて、今の8時間(11:30-19:30)の設定になったわけ」
徐々に観客のボルテージが高まり、夕刻から夜にかけてライトを照らしてクライマックスをむかえるアメリカのレース。そこから得たアイディアを基に「鈴鹿8耐」のレースフォーマットを策定したが、レース参加者からは総スカンを食らったという。
懐中電灯を貼り付けてでも!藤井氏の強いコダワリ
第1回目の「鈴鹿8耐」(1978年)は1000cc以上の大型バイクから、短いスプリントレース用の125ccレース専用バイクまで、とにかく何でもありの寄せ集めのマシンによる大会だった。鈴鹿では1965年に「24時間耐久レース」が開催されていたが、夜間走行を行うレースはほとんど存在しなかった。そのため、レース参加者たちはライトの装着に対して猛反対したそうだ。
藤井璋美氏「たかが15分か20分の夜間走行のためにライトを使うなんてけしからんと非難轟々と浴びたわけ。もう総反対食らったわけですよ。だから、もうライトは何でもいいよと。懐中電灯をガムテープで貼ってでもいいよ、と妥協したんだよ。それでも、ライト付けるなら日没の前に決勝レース終わらせろという意見が出たんだけど、僕はあのスーパークロスの日没からの感激があるから、絶対これは活かさなきゃダメだと。物凄くモメたわけ。でも、我々主催者だから、この時間(11:30-19:30)でやるんだと。日没の緊迫感とかで、場が締まってきて、ワーッていう盛り上がりが起こって、ていうのでやったほうが絶対ウケが良いんだと」
鈴鹿8耐は伝統を守り抜く
藤井璋美率いる主催者は11時30分スタート、19時30分ゴールの「鈴鹿8耐」のレース形式に拘り、第1回「鈴鹿8耐」を開催した。夜間走行の後、19時30分ゴールを迎えたバイクが光の列を織りなし、観客席の前を通過する。そして、ゴール後に花火を打ち上げた。
この日本で誰も見たことがない演出に多くの若者が感動し、口コミで「鈴鹿8耐」の噂が広がっていった。そして来場者は増え、3回目の大会となる1980年には「世界耐久選手権シリーズ」の1戦として世界選手権に昇格。80年代には若者のバイクブームが訪れ、バイクに乗って「鈴鹿8耐」に来場する、今でいう音楽の夏フェスのような雰囲気が生まれ、「鈴鹿8耐」は日本を代表するモータースポーツイベントへと成長を遂げていったのだ。
藤井璋美氏「あの時間でやるのが(第1回大会に)なかったら、8耐がこんなに成功しなかったと思う。こんなに長く8耐が続くとは思ってなかったね。今の8耐はスプリントレースみたいじゃんかよ。始まった当時はノンビリしていたよね。立ち上げの時はまさかこんなに素晴らしいレースになるとは本田宗一郎も思っていなかったよ。僕はオートバイの人間だから。だから、オートバイでどうやったら人が来たり、見たりしてくれるか、そのためには何をやったらいいのかっていうことだけを考えていたわけ。日没後の走行はこれからも絶対外さないで欲しいよね。今の時代はそれが当たり前になっているから、総スカン食うことはないけど、続けて欲しいよね」
伝統のレース「鈴鹿8耐」は台風接近の影響で6時間に短縮された1982年の大会、そして東日本大震災の電力不足を鑑みて10時30分スタート18時30分(日没前)ゴールとなった2011年の大会をのぞいて、夜間走行で19時30分にゴールするフォーマットを守り通している。そして、鈴鹿サーキットは「鈴鹿8耐」の成功を弾みに「F1日本グランプリ」「WGP(ロードレース世界選手権)」を1987年から開催することになり、「SUZUKA」の名前は世界的に知られる日本の地名となっていった。
日本のモータースポーツ黎明期からレースをし、裏方に回ってからもモータースポーツの発展のために寄与してきた藤井璋美氏は「鈴鹿8耐の父」であり、日本のモータースポーツを世界的にメジャーなものにするキッカケを作ったアントレプレナー(起業家)だった。
(インタビュー内容は2012年6月、ケーブルネット鈴鹿「レーシングスピリット」での取材撮影より抜粋)
【鈴鹿8時間耐久ロードレース】
1978年「鈴鹿インターナショナル8時間耐久オートバイレース」としてスタート。1980年より世界耐久選手権の1戦に昇格。80年代から90年代にかけてワイン・ガードナー、ケビン・シュワンツなど数多くの名選手が参戦し、国内4メーカーのワークスチームが参戦。「若者のお伊勢参り」と形容されるほどの一大イベントになる。来場者のピークは1990年の約16万人。近年は観客数が減少したが、ワークスチーム参戦、現役MotoGPライダーの参戦などで復活の兆しがある。