Yahoo!ニュース

選抜高等学校野球大会の和歌山県代表は172年の歴史を持つ耐久高校 創設者は「稲むらの火」の浜口儀兵衛

饒村曜気象予報士
和歌山県広川町にある耐久社記念館

選抜高等学校野球開会初出場の耐久高校

 第96回の選抜高等学校野球大会が、令和6年(2024年)3月18日から13日間(雨天順延)、兵庫県の阪神甲子園球場で始まります。

 そして、3月8日は、組み合わせ抽選会です。今年は、どのようなドラマが生まれるのでしょうか。

【追記(3月8日12時30分)】

 3月8日に行なわれた組み合わせ抽選会で、耐久高校は、3日目(3月20日)の第三試合で、千葉県の中央学院と対戦することが決まりました。

 出場校は32校のうち、初出場の和歌山県の耐久高校は、創立が嘉永5年(1852年)と、江戸時代です(タイトル画像)。

 172年の歴史がある耐久高校で、野球部ができたのは明治38年(1905年)と、野球部も119年の歴史があります(表1)。

表1 耐久高校の歩み
表1 耐久高校の歩み

 ただ、和歌山県には野球の強い学校が数多くあります。

 選抜の野球大会が始まったのは、大正13年(1924年)ですが、夏の大会が始まったのは、大正4年(1915年)で、その記念すべき第1回大会(第1回全国中等学校野球大会)の優勝校は、和歌山中学(当時の学制の中学は、今の高校に相当)ですし、選抜大会でも市立和歌山高校や、箕島高校、智弁和歌山高校が優勝校です。

 また、今大会に21世紀枠で出場している田辺高校(76年ぶり3回目出場)も強豪校です。

 このため、耐久高校は長らく甲子園に届かなかったのですが、冷水投手を中心とした粘りの野球で昨年秋の近畿大会でべストフォーに進出し、初出場となったのです。

 この耐久高校の中心的な創始者が「稲むらの火」のモデルとして有名となった浜口儀兵衛(のちに梧陵と称した)です。

「A living god」と「稲むらの火」

 「東海地震」「東南海地震」「南海地震」といった南海トラフと呼ばれる海溝で発生する地震は、西日本が乗っているユーラシアプレートの下にフィリピン海プレートが年間数センチの速度で沈み込むことでひずみのエネルギーがたまり、そのひずみが100年〜150年ごとに限界に達して発生しています(図1)。

図1 東海道~南海道沖における巨大地震発生年
図1 東海道~南海道沖における巨大地震発生年

 南海トラフをいくつかの領域に分けると、どの領域も周期的に地震を発生させており、規模の大きな地震は、複数の領域にまたがって発生しています。静岡県に一番近い領域Eでは、最近地震が発生していませんが、いつかは地震(東海地震)が発生することになります。

 戦前の日本では、師範学校で使われた英語の読本「A living god(生き神様)」や、尋常小学校の国語読本「稲むらの火」によって、事実上の防災教育が行われていました。

 これらの本のモデルとなったのは、紀伊国有田郡広村(現在の和歌山県広川町)の豪農で、関東の醤油業(現在のヤマサ醤油)で財をなした浜口儀兵衛(梧陵)が安政南海地震のときにとった行動です。

 明治29年(1896年)6月15日に発生した明治三陸地震により死者が2万2000名を超えるという大災害は日本中の関心事となり、大阪毎日新聞は6月21日に三陸地震津波についての解説を大きく載せています(図2)。

図2 明治三陸地震津波についての新聞記事(明治29年6月21日の大阪毎日新聞)
図2 明治三陸地震津波についての新聞記事(明治29年6月21日の大阪毎日新聞)

 記事の主たるものは、過去日本で発生した津波についてです。その中に、安政南海地震の時の浜口儀兵衛のとった行動の話があります。

 神戸クロニクル社(貿易関係の英字新聞社)の小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)記者は、この話に感激し、三陸地震津波の惨状と浜口儀兵衛の話などを組み合わせて書いたのが「A living god(生き神様)」です。

 その書き出しは、私たちの神様と違って、日本には多くの神様がおり、その中には、生きている人が神様になっているものもいるというものです。

 小泉八雲は松江師範学校(現島根大学)の英語教師時代に結婚した小泉セツのため、日本国籍をとる手続きが行われていた神戸で新聞記者をしており、4ヶ月前に国籍を取得したばかりでした。

 日本のことを書いた英文が少なかったこともあり、「A living god」は、師範学校での英語授業に使われました。

 和歌山県の南部小学校教員の中井常蔵は、教師を養成する和歌山師範学校時代の授業でこれを学び、「地元にこのような偉人がいたのか」という強い衝撃を受け、「A living god」をもとに、小学生にもわかりやすい話を作り、文部省の教材募集に応募したのが「燃ゆる稲むら(津波美談)」です。

 そして、採用され、実際に使われた尋常小学校の「国語読本(5学年用)」では「稲むらの火」と改題されました。

 つまり、昭和12年(1937年)10月から約10年間、全国の小学校5年生は、「A living god」で学んだ先生たちにより、教科書8ページにわたって掲載されている「稲むらの火」を使った防災教育を受けていたのです。

 ただ、戦後になり、戦前の教育は軍国主義を助長するということで否定され、その結果、「稲むらの火」もなくなっています。

 しかし、「稲むらの火」によって、「地震がおきたら津波がくるので、高いところに逃げよ」という考えが多くの日本人に浸透し、その後、多くの人を津波被害から救ったことは事実です。

 昭和39年(1964年)6月16日、私が中学生のときですが、新潟地震を経験し、校舎の屋上から、一階の天井付近にまで達する津波の襲来の一部始終を見ています。

 筆者の体験として、このとき、大人たちは「稲むらの火」の話をし、「地震が起きたら高い所へ」と口々に言って行動していました。中学校の屋上には地震発生直後から近所の住民が次々に上がってきましたし、近くの学校の先生が生徒をつれて周囲より高くなっている線路の上に避難したなどの話、信濃川を津波が北上してきた話、新潟空港が津波被害を受けた話などを聞きました。

 今になって思えば、新潟地震による津波で死者がでなかったのは、大人たちが子供の頃に学んだ「稲むらの火」が生きたからではないかと思っていますが、約半世紀後に発生した東日本大震災の時には、「稲むらの火」が風化していたのではないかと思います。

 というのは、東日本大震災が発生したとき、「(すぐに高台に逃げるのではなく)情報がなかったので様子を見ていた」とか、「空港が津波で被害を受けたのは初めて」とか、「津波が川を遡るなんて思わなかった」などと盛んに報道されたからです。

津波防災の日

 平成23年(2011年)6月に成立した津波対策推進法により、国民の間に広く津波対策についての理解と関心を深めるようにするため、11月5日が「津波防災の日」となりました。

 これは、安政南海地震で津波が襲った日、嘉永7年11月5日(1854年12月24日)に由来します。

 3ヶ月ほど前の3月11日に発生し、1万8000人以上が死亡した東日本大震災によって検討が始まった法律ではなく、東日本大震災の1年ほど前から、野党の自民・公明両党が衆議院災害対策特別委員会に提案していた法律がもととなっています。

 この時は、与党の民主党が難色をしめし、なかなか審議いりできませんでしたが、東日本大震災で事情が一変、すみやかな与野党合意で新法が成立しました。

 筆者は、11月5日が「大きな津波被害があった日」ではなく、「津波に対しての対策を始めた日」であり、「津波対策によって被害が大きく軽減できた日」と考えています。

「稲むらの火」の真実

 東日本大震災のあと、「地震がおきたら津波がくるので、高いところに逃げよ」が大事なことであることや、「稲むらの日」について再評価が行われています。

 「A living god」や「稲むらの火」で書かれていることは、物語の性質上、デフォルメされ、主人公を老人にしている点や地震の描写が実話とは違っている点がいくつかあります(表2)。

表2 実話と「稲むらの火」との違い
表2 実話と「稲むらの火」との違い

 しかし、真実は、もっとドラマチックで、教訓に満ちています。

 モデルとなった浜口儀兵衛は、紀州広村出身で、広村から関東に進出し、銚子で醤油を作って江戸で売ることで財をなしたヤマサ醤油の浜口家をついでいます。

 そして、工場のある銚子と商店のある江戸日本橋を拠点として活動をしていた浜口儀兵衛は、正月をすごすために広村に戻り、そこで安政東海地震と安政南海地震に遭遇しています。

 広村では、嘉永7年11月4日(1854年12月23日)四つ時(午前10時)に強い揺れを感じたあと、津波が押し寄せています(安政東海地震)。

 このとき、浜口儀兵衛は、昔からの伝承によって大地震のあと津波が来るとして村人を高台にある八幡神社境内に避難させています。そして、夕刻には津波が治まったものの、民家のほとんどが無人となったことから、盗難や火災防止のために強壮の者30余名を3分し、終夜村内を巡視させています。

 翌日、村人たちは自他の無異を喜び家路についていますが、七つ時(午後4時)に、前日とは比べることができない激しい揺れと大きな津波が村を襲っています(安政南海地震)。

 逃げ惑ったりしているうちに日は暮れています。ここで、浜口儀兵衛は、従者に路傍にあった稲むら(刈り取った稲わらを積み上げたもの)に次ぎ次ぎに火をつけさせ、逃げ惑っている人が高台に避難するための道しるべとしたのです。このため、多くの人の命を救ったのですが、浜口儀兵衛の功績はこれだけではありません。

 そして、再来するであろう津波に備え、紀州藩の了解をとりつけ、巨額の私財を投じて高さ約5メートル、幅約20メートル、長さ約600メートルの堤防を作っています。浜口儀兵衛が35才のときです。(写真1)

写真1 広村堤防
写真1 広村堤防

 4年間にわたる土木工事の間、女性や子供を含めた村人を雇用し続け、賃金は日払いにするなど村人を引き留める工夫をして村人の離散を防いでいます。

 浜口の作った堤防には松林の内側にロウソクの材料ともなるハゼの木が植えられ、堤防を保守する人々の手間賃の足しにするというところまで考えていました。(図3)。

図3 広村堤防の概略図
図3 広村堤防の概略図

 安政南海地震から92年後の昭和21年(1946年)12月21日、昭和南海地震が発生し、約30分後に高さ4~5メートルの大津波が未明の広村を襲いましたが、浜口儀兵衛の作った堤防は、村の居住地区の大部分を護っています。

 つまり、浜口儀兵衛は同時代を生きる人々を助けただけでなく、未来の人も助けたのです。

人材育成へ多大の貢献

 浜口家は、当主になる人間でも、下働きから経験させていました。このため、若いころの浜口儀兵衛は、銚子と江戸で修行をしていたのですが、この修行の間、武芸や学問にもはげみ、多くの人と交流をしています。

 終生の師友となる蘭学者の三宅良斉から蘭学を習い、佐久間象山の門をたたいています。

 学問好きの浜口儀兵衛は、貧しくとも勉学に励んでいた勝海舟に資金援助を行っており、福井藩主の松平春嶽と知り合うきっかけを作ったと言われています。

 のちに、勝海舟が神戸に海軍総錬所と海軍塾を作って幕末から明治初期に活躍する若い人材を育成したとき、勝海舟は弟子の坂本龍馬を福井に派遣して福井藩から多額の資金を借りていますので、浜口儀兵衛は幕末のキーマンの一人といえるでしょう。

 嘉永5年(1852年)に紀州に戻った浜口儀兵衛は、青年子弟の教育のため稽古場を開設しています。33才の時です。

 「稲むらの火」のエピソードの2年前のことです。

 明治元年(1868年)には維新後の紀州藩の藩政改革を行っていた津田出の推挙で勘定奉行となり、翌年には、「大広間席学習館知事」に抜擢されています。

 紀州藩(和歌山藩)という大きな藩の教育を行う責任者の地位に就いたのです。

 明治維新という大きな変革の中で、南海地震に際して示した指導者としての能力が買われたものと思います。

 和歌山藩には漢学を教える学習館と国学を教える国学館の2つの藩校がありましたが、最初に学則5か条及び課業書目を定めています。そして、実学的思想を与えるとともに、西洋文明の研究に語学の必要を認めて、共立学舎という英語学校を設立しています。

 以後、和歌山で活躍するのですが、各方面で人材を求めていた新政府の目に留まります。

 大久保利通参議が井上馨大蔵大輔(大臣)に送った書簡に「和歌山藩浜口権大参事は、段々承繕候処、人物よろしく民部の方適任の由…」という一説があり、明治4年(1871年)には、駅逓頭(少し前で言えば、郵政大臣)に任じられています。

 浜口儀兵衛の直属の部下で、後任の駅逓頭が日本の郵便事業を官営で進めた前島密です。

 その後、和歌山県に戻り、明治13年(1880年)には、県会開設とともに、初代の和歌山県議会議長になっています。

ニューヨークにおいて勉学半ばで死す

 耐久高校の名称が変更されそうになった時があります。耐久高校のホームページには、「終戦後視察に訪れた進駐軍の将校がナイアガラの滝を前にしている創始者・浜口梧陵の肖像画を見て感動し、校名がそのまま残ったという秘話がある」とあります。

 家業を発展させ、中央政界、地方政界で活躍したあと、若いときからの夢であった本格的な勉学のため、浜口梧陵と称した浜口儀兵衛は、明治17年(1884年)5月30日に横浜を出港したシティ・オブ・トウキョウ号に乗船しています。

 浜口梧陵が65歳の時で、強い意志で強行したといわれています。

 そして、同年6月にサンフランシスコに到着、各地を歴遊し、ナイアガラの滝の前で写真をとっています(写真2)。

写真2 ナイアガラの滝で記念撮影をする浜口梧陵(「浜口梧陵小伝」より)
写真2 ナイアガラの滝で記念撮影をする浜口梧陵(「浜口梧陵小伝」より)

 ニューヨークに到着は10月下旬です。

 ニューヨークから東京の一友(福沢諭吉と察せられる)にあてた書簡に「年内にヨーロッパに渡るか、アメリカにおいて越年するか迷っている」とあるなど、家人に告げていた1年以内ではなく、最初から3年程度の留学を考えていたといわれています。

 しかし、ニューヨークで病になり、身辺の人はしきりに帰朝を進めたものの、「どうせ死ぬなら、ここで死んでも日本に帰って死んでも同じことだ。むしろヨーロッパに行って死んだ方がいい」と語っていました。

 体調の良いときはボストンやフィラデルフィアを訪ねたりしていましたが、明治18年(1885年)4月21日にニューヨークで病が悪化し、亡くなっています。

 遺骸には防腐剤が施され、フロックコートを着用せしめて鉄製で厚いガラスで蓋をした寝棺に納められました。

 下記は、浜口家が出した新聞広告の文章ですが、浜口家は、代々、当主は儀兵衛という名前を受け継いでいますので、広告主は当時の当主の浜口儀兵衛です。なお、ここで「皈(キ、かえる)」は、帰るの意味の字です。

引用:明治18年(1885年)6月5日 大阪朝日新聞朝刊
養父梧陵遺骸 去月二十八日米国ヨリ横浜ヘ着 一昨日横浜 今三日午前五時神戸着 直ニ小蒸気ヲ以テ郷里広村ヘ皈骸候ニ付 此段公告候也 但埋葬期日ハ追テ広告スヘシ
和歌山県有田郡広村
六月三日 浜口儀兵衛

 葬儀は6月14日に広村の西の浜(現在の耐久高等学校の敷地)で行われ、会葬者4000名とこの地方においては未曽有の葬儀でした。

 明治26年(1893年)4月に作られた記念碑は、枢密顧問官伯爵の勝海舟が撰文と題額を刻しています。

 耐久社は、浜口梧陵の死後も、その遺志の継承者によって維持され、明治25年(1892年)には、梧陵の孫にして当主の浜口儀兵衛と、梧陵の息子の擔が中心となり、地元有力者の援助の下に、耐久学舎と改称し、英漢数等の普通教育を実施しています。

 その耐久学舎が耐久中学校、耐久高等学校と、「耐久」という名称を維持しながら発展し、甲子園球場に登場します。

タイトル画像、写真1、写真2の出典:浜口梧陵翁五十年祭協賛会(昭和9年(1934年))、浜口梧陵小伝。

図1、図2、図3、表2の出典:饒村曜(平成24年(2012年))、東日本大震災―日本を襲う地震と津波の真相、近代消防社。

表1の出典:耐久高校のホームページをもとに筆者作成。

気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2024年9月新刊『防災気象情報等で使われる100の用語』(近代消防社)という本を出版しました。

饒村曜の最近の記事