Yahoo!ニュース

【九州三国志】岩屋城の英雄、紹運の奮戦!玉砕の覚悟が生んだ九州制覇の阻止

華盛頓Webライター
credit:pixabay

天正12年(1584年)の沖田畷の戦いを契機に勢力を拡大した島津氏は、九州全土掌握を目前にしていました。

1586年、島津義久の命を受け、島津忠長率いる2万余の軍勢が筑前へと進撃。

まずは筑紫広門を下した後、岩屋城を守る高橋紹運の軍を攻め立てたのです。

しかし、わずか763名の篭城軍は徹底抗戦の構えを見せ、城の陥落を許しませんでした。

島津軍は何度も降伏を勧告し、さらには紹運の実子を差し出せば講和すると持ちかけたが、紹運はすべてを断固拒否。

敵軍の圧倒的な兵力を前にしながらも、島津軍を迎撃し続けたのです。

戦いは長引き、7月27日に島津軍は総攻撃を敢行。

ついに岩屋城を陥落させ、詰の丸で紹運は壮絶な割腹を遂げました。

篭城軍は全滅、紹運以下763名が討死したが、島津軍も多数の犠牲を出し、戦力を大きく消耗する結果となったのです。

紹運の最期には多くの逸話が残ります。

彼は岩屋城を「囮」として選び、主家の大友家を守るため自ら命を捧げる覚悟を決めていました

敵味方を問わず彼の忠義と武勇には賞賛の声が上がり、島津忠長ですら首実検の際に涙を流したといいます。

また、息子の立花宗茂も父を救うため援軍を送りたいと考えたものの、紹運は一切の援軍を拒否し、自らの死をもって主君への忠誠を示しました。

この岩屋城の戦いは島津軍に大きな痛手を与え、彼らの九州制覇を大きく遅らせる要因となりました。

その間隙を突き、豊臣秀吉率いる20万の大軍が九州に上陸。

結果、島津軍は薩摩へと撤退を余儀なくされ、九州全土を掌握するという夢は潰えたのです。

紹運の命を引き換えにした玉砕の覚悟は、大友家と九州の命運を大きく左右するものとなりました。

Webライター

華盛頓です。以前の大学では経済史と経済学史を学んでおり、現在は別の大学で考古学と西洋史を学んでいます。面白くてわかりやすい記事を執筆していきます。

華盛頓の最近の記事