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【九州三国志】義久降伏、薩摩一国の安堵!九州国分と秀吉のさらなる展望

華盛頓Webライター
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天正15年(1587年)5月、島津義久が降伏を表明し、九州征伐は大きな節目を迎えました。

しかし、島津義弘や歳久らはなおも抵抗を続け、義弘は飯野城に籠り、歳久は婿養子忠隣を失いながらも徹底抗戦の構えを見せたのです。

最終的に、義久の説得によって義弘も降伏し、子息・島津久保を人質に差し出すことで事態は収束しました

秀吉本隊は川内から北上し、6月7日に筑前筥崎へ到着。筥崎八幡宮において九州国分令を発し、戦後処理と領地配分を明確化したのです。

島津氏には薩摩一国が安堵され、義弘には新恩として大隅国が与えられました。

また、日向の一部は義弘の子・島津久保に与えられたのです。

一方、家久は日向の領地を明け渡し、上方へ向かう矢先に急死(病死または毒殺とされる)。

その跡は嫡子の島津豊久が継承しました。

九州の分配は徹底した政治的調整のもとに進められたのです。

豊後には大友義統が一国を安堵され、高橋元種が延岡と宮崎を与えられました。

肥後は佐々成政に与えられたものの、成政の強引な施策が肥後国人一揆を引き起こし、結果として失脚。

その後、肥後北部は加藤清正、南部は小西行長が治めることとなりました。

また、豊前には黒田孝高が6郡を与えられ、筑後柳川には立花宗茂が大名として取り立てられたのです。

秀吉はさらに廃墟と化した博多の復興を命じる一方、キリスト教勢力への対策も強化しました。

筥崎でバテレン追放令を発し、南蛮貿易への統制を図ったのです。

一方で、島津氏の家中では所領減少による財政難が深刻化。

蔵入地の質入れや借銀で補填を試みたものの、不満は募り、のちに梅北一揆という形で噴出することとなりました。

九州征伐を通じて西国平定を成し遂げた秀吉は、その勢いを東国平定や海外進出へと向けます。

九州が「唐入り」の前進基地としての位置付けを与えられたことで、日本全体が次なる大事業の舞台へと変貌していったのです。

Webライター

華盛頓です。以前の大学では経済史と経済学史を学んでおり、現在は別の大学で考古学と西洋史を学んでいます。面白くてわかりやすい記事を執筆していきます。

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