【九州三国志】伊集院三代、島津家に仕えた忠義と波乱!政務、戦功、そして悲劇の宿命
伊集院忠朗、忠倉、忠棟──この三代にわたる伊集院家の物語は、島津家中における忠義と権力の交錯を象徴しています。
忠朗は島津忠良・貴久父子に仕え、その地位を盤石なものとしました。
天文18年(1549年)の黒川崎の戦いでは、息子の忠倉とともに暴風を利用した奇襲作戦で肝付兼演を破り、見事な戦功を挙げたのです。
また、岩剣城の攻めでは、島津軍に鉄砲の実戦投入を進言するなど、軍略にも長けた人物でありました。
その功績により島津家の筆頭家老として政務を取り仕切り、家中で重きをなしたのです。
その跡を継いだ忠倉もまた、戦場と政務の両面で島津家を支えました。
忠朗との黒川崎の戦いの戦功を引き継ぎ、弘治4年(1558年)からは筆頭家老として島津家の国人統制に力を尽くしたのです。
父子二代の活躍によって、伊集院家は島津家中で揺るぎない地位を築き上げました。
三代目の忠棟は、父・忠倉の跡を継ぎ、島津義久に仕えたのです。
忠棟は筆頭家老として島津家の政務を取り仕切り、肥後や筑前への遠征でも戦功を挙げました。
また、歌道にも通じ、細川藤孝と交流するなど文化人としての一面も持っていたのです。
豊臣秀吉の九州征伐が始まると、忠棟は早くから秀吉との和睦交渉を進め、戦局が不利になると島津家の降伏を主張しました。
天正15年(1587年)の根白坂の戦いでは右軍を任されていたものの、進軍を見合わせたことで北郷勢に多大な犠牲を生じさせ、島津軍は敗北したのです。
戦後、忠棟は剃髪して自ら人質となり、秀吉のもとで島津家の赦免を嘆願しました。
その弁舌が島津家の存続を可能にしたと評価する声もあります。
秀吉からはその能力を認められ、肝属一郡を与えられるなど、豊臣政権下での地位を高めました。
しかし、太閤検地後の知行配分を巡り家中で不満が噴出。
忠棟は権勢を誇ったものの、次第に島津宗家から危険視されるようになりました。
慶長4年(1599年)、ついに忠棟は島津忠恒(後の島津家久)によって伏見で殺害されます。
忠恒単独の犯行とされるものの、その背景には島津宗家の政争や忠棟の独立心が関係していたとの説があります。
忠棟の死後、嫡男の忠真が家督を継ぐも、領地で庄内の乱を引き起こすなど、伊集院家は衰退の道をたどりました。
島津家側では忠棟を「国賊」として記録し、佞臣と評したのです。
しかし、九州征伐後に島津家の存続を救った功績を評価する声も少なくありません。
新井白石は「忠義の者」と称賛し、その功績を再評価しました。
忠棟が残したものは、島津家の中で評価が分かれる存在として、歴史の中に複雑な足跡を刻み続けています。