樋口尚文の千夜千本 第187夜『シン・ウルトラマン』(樋口真嗣監督)
見返り巨人は、途上にて輝く
冒頭のおなじみの渦巻きクレジットから(いや厳密に言えばその前に古式ゆかしい「東宝映画」のクレジットに始まり)、全篇これオマージュとそこからの飛躍、アダプテーションのつるべ打ちである。原点のテレビ映画シリーズ『ウルトラマン』をまるで見たこともない世代がこの作品を観たら、むしろすっきりとしたものに感じるのかもしれないけれども、軽快なテンポのなかにこれでもかと畏敬に満ちたオマージュとなるほどという翻案が反復されていて、満腹感を通過してちょっとくたくたになるくらいだ。
もちろんそんな『ウルトラマン』や『ウルトラ』シリーズ的記憶を持ち合わせていなくても楽しめるわかりやすい映画には違いないし、そんな観客を排除するような映画では全くないのだが、せめて今回の挿話の原点となったテレビ版のエピソードくらいは見てみたほうがこの作品の敬虔さとやんちゃさがいっそう愉しめるのは確かだろう。
なんといっても初登場から56年、根強い人気を背景に重層的な変奏が試みられてきたウルトラマンというヒーロー像は、もはや作者とファンの共同幻想のなかでとんでもなく巨大化した難儀な主題であり、今回の大がかりなアダプテーションは「結果どういう作品になったか」もさることながら「あの原点をどういう距離感でどう料理したか」を愛でるべき作品という気がする。
そんな目線で観ていると、テレビ版のあの宇宙人のエピソードをこう活かしてこうつなげるのかという構成はなかなかよくできていて、その宇宙人や怪獣のデザインも原案から素晴らしい飛躍が試みられていて嬉しい。もの凄く細かい話をすれば、対ザラブ戦でマンがチョップした後に手が凄く痛そうだとか、そんな特に気にしなくてもいい内輪ネタまで、濃すぎる旧作愛とやんちゃな、もしくはスマートな翻案がてんこ盛りである。
こうした怪獣物、SF物を大人も見られる堂々たる娯楽篇にするために、『シン・ゴジラ』ではポリティカル・フィクション的な味つけを施して、言わば動く原子炉が東京のどまんなかに出現したら、という設定で怪獣映画にリアリズムを与えたところが画期的だったが、今回も言うなればウルトラマンという超=核兵器的なものが世界に現れた時に国際政治はどう動くか、という感じのバックストーリーが新しいところであった。これ以上は言わないが、わかりやすい冷戦期に描かれた初代『ウルトラマン』の素朴な他力本願的な展開に比べて、複雑で仁義なき「第二の冷戦」の始まりにたまさか公開されることになった『ウルトラマン』今様はなかなかそこらへんが苦味走っている。
さて、こういう展開や味つけはファンの「好み」次第ではいろいろと好き嫌いが分かれるかもしれないが、そんなことよりも大切なのは、『ウルトラマン』という巨大なお題に対して、こういう刺激的でいきいきとした更新、伝承がなされることなのだ。おそらく『ウルトラマン』というコンセプトは、これをひねり出した円谷プロ周辺の才能たちすら気づかないほど、とてつもない可能性を秘めたものだったのであり、何より大切なのはその「決定版」を生み出すことではなく(いやたぶん「決定版」とは何かが決められないはずであって)、この稀有なコンセプトの原基に挑発されたさまざまな才能たちが、これを独自のかたちで膨らませ、申し送りし続けることなのだ。
まさに『シン・ウルトラマン』の作り手たちは、敬虔さとやんちゃさの両エレメントをもって手のこんだ「引用の織物」を創造しながら、盛大な申し送りの途上にあるのであって、それが「決定版」と呼ばれようが呼ばれまいが関係なく、好きとか嫌いとか峻別されるのも関係なく、大げさに言えばその旧世代から次世代へ続く「創造潮流」に渾身で加担していることこそが何より貴重なのである。したたかに正系でありしたたかに異端である『シン・ウルトラマン』は、そのことで何より「決定版」らしきおさまりを捨て、ウルトラマンというアイディアの可能性とこれからを期待させるのだった。