樋口尚文の千夜千本 第67夜「火花」(廣木隆一総監督)
最先端の配信が召喚する懐かしきドラマの美徳
確か日本じゅうがミレニアムで騒いでいた時分に、ある映像業界の識者から「あと少しすればみんなが携帯電話で映画を観るような時代になりますよ」と言われたが、映画館もまだデジタル化前夜であり、ようやくDVDが普及し始めたくらいの時期だったので、その発言にはまるで現実味を感じなかった。だいいち技術的にそんなことが可能になっても、まさか観客がスクリーンならぬ携帯のサイズで満足できる由もないと思った。それから16年を経た今、私はとうとう全10話のドラマをスマホで完走してしまった。さすがにこんな経験は初めてだったが、さらに言えばそれを見ている場所はオフィスのデスクであったり、ふらっと入ったカフェであったり、上映開始を待つ試写室であったり、移動中の新幹線の車内であったり・・・場所も時間も問わなかった。こんなことが日常化すると、毎夜ベッドに寝っ転がりながら日本映画の旧作をスマホで眺めて眠気のおとずれを待つ、などということが日課になってしまった。
米国の動画配信大手Netflixがオリジナルコンテンツとして又吉直樹の芥川賞受賞作「火花」を連続ドラマ化、190か国に配信したところ、全視聴者の半分は海外だったという驚きのニュースが流れた。題材は漫才であるから、ちょっと世界の観客を想定すると特殊な感じがしてしまうのだが、漫才の掛け合いをうまく意訳すれば、『火花』における物語と人間関係の設定は「才能と嫉妬」をめぐるごくシンプルで、どこの国の視聴者が見ても理解できるものだろう。逆に漫才の特殊性も、現在的なオリエンタリズムの一類型として海外の視聴者の興味をそそるものかもしれない。
さて、そんな鳴り物入りの『火花』はNetflixという最先端の「観られ方」のフレームでわれわれの目にふれている訳だが、意外や私にはこの視聴がたまらなく懐かしいものに思われた。というのも、原作「火花」を10話で描こうという方針は何をもって決められたのか判らないが、これはぐいっと腕力でまとめればその半分くらいでも描けないことはない内容という気もする。したがって、10話となるとテンポも自ずと緩やかになるし、途中で展開の空隙みたいな箇所も出てくる・・・のだが、しかし連続ドラマ『火花』にあってはそこがひじょうによいのである。その緩慢さと空隙が想起させるのは、1970年代くらいまでの地上波の連続テレビドラマの感覚なのだった。
原作も読まず内容も知らない視聴者のことを慮って詳細は記さないが、『火花』にはごく大雑把に言えば三つの山場がある。主人公のお笑いコンビのひとり・徳永(林遣都)と彼が思い入れる先輩芸人・神谷(波岡一喜)が出会うところ、ふたりの優劣関係が逆転して神谷に変化が表れるところ、そして最後に神谷がさらに想定外の変化(変身?)を遂げて徳永が茫然とするところである。この三つのポイントが含まれる第1話、9話、10話が全て総監督の廣木隆一監督の演出だというのも興味深い。廣木監督はさすがの手練れの構えで、この三話を静かななかにもきっちりと盛り上げている。もしもこれを二時間くらいの劇場用映画の仕立てにするならば、きっとこの三話を軸に肉づけすることになるのだろう。しかし、そういうつくりでこの作品が今回のドラマ版のような情感を手に入れられたかどうか。
というのは、ドラマ版にあっては、くだんのように比較的際立った見せ場を含む三話のはざまに、ひじょうにのんびりとした日だまりのような時間があって、特に第3話から第7話あたりの緩慢さと空隙は多彩な俳優陣の客演もゆるゆる愉しめて快い。そしてこのあたりを通過しながら、私は今や失われた70年代くらいまでの地上波の連続ドラマの風味を思い出していた。当時のドラマは、現在のそれのように突飛な設定もあざとい映像ギミックもなく、普通に役柄に合った俳優たちの自然な演技をゆったり描くのが当たり前のことだった。その多くは緩い凡作であったかもしれないが、じわじわと演技者の個性を見つめ、その作品ならではのホーム(固く言うなら世界観)を築こうとする美徳があった。そして、その有形無形のホーム構築には、見せ場を巧みにつなぐ効率よりも、えもいわれぬ緩慢さと空隙がものを言うのであった。
事ほどさようにドラマ『火花』のよさは、急いて語るなら全五話でも済みそうなところを往年のドラマシリーズのようなテンポで10話構成にしてこつこつと世界観を作ったということ。そして、そのためにこれも往年のドラマのように「役柄に合ったキャストを起用する」適正さがあること(今の地上波は、いかにその取り合わせが絶妙であろうと林遣都と波岡一喜のコンビで10話の堂々たる連続ドラマを制作しようという英断をなし得るだろうか)。また、日本初の「Netflix」オリジナルドラマというふれこみだと、さぞや今時ふうの映像ギミックが連発されるのだろうと思いきや、本作の映像はひじょうにナチュラルで美しく、編集もショットの据わりを重んじていて、最近のドラマはおろか多くの映画よりもずっとストイックで好ましかった。終盤で廣木監督が林遣都の表情の微細なゆらぎを逃すまいと見つめ続ける長回しなど、最近はドラマでも映画でもなかなかお目にかかれないものだ。
先述したように全体の構成としては第1話、9話、10話のささやかな事件に、第3~7話のなにげない脱力気味の日常を対置することで、緩やかな日常が小さな波瀾を呑みこんでいるような愛すべき世界観を作っているのだが、さらに前者の廣木監督に対して後者の第3、4話を白石和彌監督、第5、6話を沖田修一監督と資質の異なる監督に委ねているのも奏功した。この監督連はもとより、シリーズ全体を手がけた脚本の加藤正人、音楽の上野耕路、撮影の鍋島淳裕、美術の相馬直樹という充実のスタッフの意欲的な仕事ぶりが画面に表れていた。
そして熱演の波岡一喜はあいかわらずの芸達者ぶりで、倨傲さの随所に不安が透けるさまや、劣等感と焦燥きわまるところに見せる鬼気迫る表情など特筆ものだったが、今ひとりの主役・林遣都も本作のなかなか得難い役柄に出会って、こんな味わいのある役ができる俳優だったのかと大いに瞠目させられた。もちろん2007年の『バッテリー』に始まり『DIVE!!』『ラブファイト』などで主役をつとめた初期の頃から注目していたし、2009年の『風が強く吹いている』など忘れ難いが、その一見スポ根やラブコメなどの青春映画にはまりそうな美少年のマスクがどうしても(本人の努力とは関係なく)印象の幅を狭めていた気がする。しかし年齢も二十代後半を迎えたところで、健気でずっこけてペーソス溢れる魅力的な役に出会ったことで、『火花』の林遣都は抜群に輝いていた。『花芯』『にがくてあまい』などの映画の出演作も続々公開されるが、それぞれに多彩な役に挑んでいて、これを機にさらに役柄を固定せず節操なく自己拡張してほしいと思う。