男子サッカーインターハイ準優勝校 米子北高校のチーム作り(その4)
高校サッカーの名門である青森山田高校との決勝戦は、米子北高校が前半早々に先制し、リードを保ったまま試合が進んだ。そして後半も相手の猛攻を跳ね返しつつ、鋭いカウンターを繰り出す展開が続いた。試合前に描いていた複数のシナリオの中でも、最も理想的な試合展開で、勝利へのカウントダウンが始まろうとしていた。しかし、試合終了目前で被弾。延長戦に突入した。
公式記録を見ると、延長戦は両チームともシュート2本ずつだったが、試合の構図は変わらなかった。このままPK戦かと思われた延長後半のラストワンプレーに悪夢が起こった。コーナーキックから決勝ゴールを決められ、米子北高校は準優勝で幕を閉じた。あのゴールが決まった瞬間、ペナルティエリア内の米子北の選手たちは皆、膝から崩れ落ちた。右からか左からか、コーナーキックの位置こそ違えど、奈落の底に突き落とされたこの一撃、 “ドーハの悲劇” と同じ光景だった。
私が米子北高校と関わり始めたのが今年の春、数か月で選手たちはそこから大きく成長してくれた。目標の全国制覇をあと一歩のところで逃したチームの課題はいったい何なのか、チームビルディングの視点からお伝えし、今回の連載を閉じようと思う。
「あとちょっと」は大きな差
今大会、高校サッカー界の横綱的存在である青森山田を、土俵際まで追い詰めた唯一のチームが米子北だ。しかし、最後は押し切られた。これをどう捉えるかが重要だと思っている。愛着の湧いたチームに敢えて厳しいことを言うとすれば、「あとちょっと」と思っていてはこの差は埋まらない、と伝えたい。これは、海に浮かぶ氷山に例えられる。「氷山の一角」という言葉のとおり、見える部分は全体のごく一部に過ぎない。氷山の見える部分がひとまわり大きければ、海面の下で見えない部分にははるかに大きな差があることだろう。
見ようと思わなければ見えない部分を大切にする
米子北は青森山田を追い詰めた。そして、僅差で負けた。試合は間違いなく「僅差」だった。しかし、最後の最後でわずかに上をいったのは青森山田だった。土台の大きさが違うからこそ、1つ上にいけたのではないだろうか。目に見える結果としては僅差だったかもしれないが、海面の下に隠れた部分には大きな差があったはずだ。決勝戦に敗れた直後、抜け殻になった私はぼんやりとそんなことを考えていた。
私は、「見ようと思わなければ見えない部分」が、パフォーマンス発揮に多大な影響を与えていると信じている。逆に言えば、「目に見える部分のわずかな差は、目に見えない部分の大きな差」だと言えよう。例えば、毎日の練習で顔を合わせる仲間だとしても、自宅でどのように過ごしているかは見ることができない。夜更かししてゲームをしているかもしれないし、食事と睡眠時間に気を使った生活をしているかもしれない。その違いで、見える部分(=練習の質)にわずかな差が生まれる。
他にも例を挙げよう。「この選手は、なぜ苦しい状況でもこんなに走れるのだろうか」というくらい、誰の目にも留まるタフな選手がいたとする。しかし、その選手の志、動機、価値観などは、簡単に見ることはできない。内に秘めた大きな志や動機が、苦しい時の原動力になっているはずだ。やはり、大切なものは見ようと思わなければ見えないのだ。
今夏のインターハイは、コロナ禍により無観客試合となり、観客席は静まり返っていた。つまり、どのチームも、見えるところ(=観客席)には大きな差がない。しかし、米子北高校には見えないところに大きなアドバンテージがあった。メンバー外となり、米子の地に残った100名弱の仲間たちの存在だ。「その3」でも触れたが、彼らはインターハイ期間中、周辺住民が驚くほどの大声で、熱力高く練習していたのだ。主力メンバーや監督が不在なら、練習がトーンダウンしても不思議ではないが、彼らはむしろ質を上げていた。
メンバー外になった仲間から福井にいる選手たちに、応援動画が届くこともあった。福井と米子、離れていても心を1つにして共に闘ってくれている仲間の想いを背負っていたからこそ、何度も何度もギリギリの試合を勝ち上がることができた。やはり、見える部分でのわずかな差を生み出しているのは、見えない部分の大きな差なのだと思っている。
「見える部分のわずかな差は、見えない部分の大きな差」だということは、先述した通りだ。だからこそ、米子北高校が再び同じ舞台に戻り、最後の1勝をもぎ取るために必要なことは、何気ない日常の風景を一変させることだと思っている。試合だけでは見ることができない、日々の取り組みの質を高くする。キーワードはやはり凡事徹底だろう。誰もが知っている当たり前のことを、誰も真似できないレベルで徹底させることでしかたどり着けない場所がある。
経験の差
今回の決勝戦のような負け方をすると、敗戦の理由を「経験の差」と表現することが多々ある。最後にこの言葉について私の意見を述べて、この連載を締めくくろうと思う。
スポーツでよく耳にする「経験」という言葉だが、具体的にどういうことを指すのだろうか。この使い勝手のいい抽象的な概念をきちんと言語化して整理しなければ成長につながらない。
私がスポーツ現場にいて感じるのは、絶対に負けられない「大一番」で「大接戦の末になんとか勝利をもぎ取った数」と「大接戦を演じつつも奈落の底へ突き落とされた数」、そしてそこから得られた無形財産の蓄積の差を「経験の差」と呼んでいるのではないかと思う。
「勝利」を手にするためには、単に全力を尽くすだけでは足りない。緻密に練られた戦略・戦術だけでも十分ではない。大舞台でしか味わえない感覚、大接戦でしか得られないモノがある。苦しい試合では、大局的な視点をもって試合を運ぶことが大切で、過去にそのような状況を経験していることが有利に働く。経験があると、勝負どころを見抜くことができる。バランスを取って落ち着かせるところ、ミスしてはいけないところ、割り切って主導権を手放すところ、リスクを負うところなど、流れの中でメリハリをもてるようになる。
そういう意味では、青森山田には経験があったのだろう。数々の栄光のいっぽうで、2019年度、2020年度高校サッカー選手権では2年連続決勝戦で涙を飲んでいる。2020年度の決勝戦では山梨学院高校と2-2の激闘の末、PK戦で敗れた。2019年度の決勝戦では静岡学園に2-3と惜敗している。
サッカー男子日本代表に目を移すと、1998年から6大会連続でワールドカップ出場を果たしているが、私が幼いころは「ワールドカップは夢舞台」とか「ワールドカップは観るものだ」などと言われていた。「日本がワールドカップに出場するうえで足りないものは “経験” だ」とも言われていた。それでも「ドーハの悲劇」「ジョホールバルの歓喜」「ロストフの悲劇」など、肉体的にも精神的にも限界に達する極限状態での接戦で得たモノが、日本代表の経験値になっているはずだ。大舞台での大接戦を通して、日本は6大会連続でワールドカップ出場を果たせるまでになった。
高校の場合は、3年でメンバーが全員入れ替わる。せっかく得た経験を昇華させ、成長につなげるためには、この悔しい経験をしたメンバーが在籍している2年以内に、もう一度、全国制覇をかけた決勝の舞台に立つことが大事になる。簡単なことではないが、日常の当たり前を見直し、見えない部分の土台を育てていくことが一番の近道だと思う。
最後になってしまったが、チームに欠かせない存在をご紹介したい。確かな目で選手をスカウトしてくる城市総監督だ。大会中も黒子に徹していたが、やはり隠しきれない存在感がある。間違いなくチームに落ち着きをもたらし、選手やコーチングスタッフが集中できる環境を作っていた。城市総監督の存在なしにこの結果は成し得なかった。
この春から米子北高校に関わることができたことに感謝をしたい。望んだ結果ではなかったとはいえ、準優勝は立派な結果だ。すべては選手、スタッフ、学校関係者や保護者の皆様、見守ってくれている地域の方々の努力の結晶であることは言うまでもない。私の仕事はちょっとしたスパイス程度に過ぎない。とはいえ、仕事のリターンとして、こんなに大きなワクワクと感動をもらえる私は本当に幸せ者だと思う。今後もチャンスをいただけるなら、米子北高校の挑戦をサポートしたい。