知られざる54年前の「竹島爆破発言」をめぐる秘話
竹島(韓国名:独島)で日韓は再びいがみ合っている。日韓の懸案の一つである慰安婦問題が昨年12月の日韓合意でほぼ解決し、関係が修復していた矢先だけにこの問題で逆行しないよう両国共に自制が求められている。
それにしても、「我が国の固有の領土」と双方ともに主張している領土問題だけはどうにも解決の術がない。領土問題では妥協の余地がないからだ。
およそ半世紀前に国交正常交渉の過程で日韓どちらからともなく「日韓関係の将来に禍根を残さないよう今のうちに爆破してしまったらどうか」との提案があったと聞いているが、どちらが提案したのかは不明のままだ。しかし、この奇想天外な提案をしたのは、韓国側との説を裏付ける興味深い証言がある。
日韓国交正常化交渉は1951年から始まり、14年がかりで交渉が行われ、1965年に条約締結でケリがついたが、条約締結3年前の1962年12月、日本から大野晩睦自民党副総裁、船田中、桜内義雄同党代議士ら自民党代表団が正常化交渉のために訪韓したのが分岐点となった。
日本プロレスリングコミッショナーでもあった大野副総裁は反韓派の代表として知られ、韓国でも嫌われていた。大野一行の訪韓は交渉パートナでもある、後に総理となった金鍾泌韓国中央情報部(KCIA)部長の直々の招請によるものだ。
大野副総裁は日韓の国境海域にある竹島が日本の領土であることを主張しようと活き込んでいた。それだけに「たとえ、売国奴と言われようとも、今度の韓日交渉は絶対に成功させてみせる」と自らの政治生命を賭けた金部長からすれば、大野招請は一種のバクチでもあった。
金部長は日韓国交正常化に慎重な自民党の実力者、大野副総裁を落とせば、日韓交渉は大きく前進すると考えていた。しかし、万が一、日本の代表団に不測の事態が起きれば、これまでの交渉はすべてご破算になりかねない。実際に大野一行の訪韓に反対する民族主義者らの間ではテロを含む不穏の動きが伝えられていた。KCIAは一行の警護に万全を期した。
一行の警備を任されたのが、後にKCIA監査部長にまで昇進した方俊模ソウル分室警護係長だった。方氏は朴正煕政権内の権力闘争に敗れ、1976年に渡米し、在米韓国人社会とも接触せず、密かに暮らしていたが、11年後の1987年にインタビューに成功した在米韓国人新聞「THE SEGAE YIMES」の記者に日韓交渉の舞台裏について重大な証言をしていた。以下はそのさわりの概要である。
ソウルに到着した大野一行には金部長から頼まれ、大野訪韓を働きかけた右翼の大物、児玉誉土夫も含まれていた。宿舎は朝鮮ホテルに指定され、KCIAソウル分室はソウル市警の女性刑事を大野副総裁のルームメイドとして張り付けた。しかし、この配置は単に警護のためだけではなかった。
到着した翌日、大野一行は朝食を済ませると、会談が始まるまで2時間余りあったので散歩や市内見学に出掛けた。大野副総裁の秘書も私用で外出し、大野副総裁の部屋は空っぽとなった。
ルームメイドはこの機会を利用して掃除のため部屋に入り、部屋のキャビネットの中に韓国側との会談に臨むための日本側の秘密文書が保管されているのを見つけ、「大きな魚がひっかかりました」とソウル市警の情報担当官に知らせた。
ソウル市警情報担当官から秘密文書の存在を知らされた方係長は上司の課長にこのことを伝え、書類を盗み出せることを伝え、カメラマンの派遣を要請した。
到着したカメラマンに対して方係長は「今回の仕事は韓国情報部の実力を誇示する仕事である」ことを強調し、ルームメイドを装った女性記者に書類を盗み出させ、写真を撮ることに成功した。マル秘と印字されていた書類は日本政府が代表団に伝達した「秘密外交指針書であった。
写真を撮り終わり、課長に報告すると、課長は「よくやった。金鍾泌部長がその写真の到着を待っている。一時間後には会談が始まるから、日本側の出方を知るうえでも是非その前に見ておきたい」と方係長の労をねぎらった。現像された写真から書類に「竹島は日本の領土であることを主張すべきである」ということが書かれてあった。
大野・金鍾泌会談は南山のKCIA本部で行われたが、大野副総裁は案の定「竹島は日本の領土であり、日本に返還しなければ、今後会談には応じられない」と竹島問題を持ち出した。これに対して、金部長は待ち受けていたように「今日の会談は韓日国交に向けての予備会談で、独島のための会談ではありません。もし、独島のせいで会談がうまくいかないのなら、飛行機から爆弾を落として、独島を爆破させ、失くしてしまえばよいではないですか」と笑って答えた。
大野副総裁は金部長の口からこのような大胆な発言が出るとは全く予想してなかったようで金部長(当時36歳)について「若いのにたいした男だ」と褒めちぎっていたと聞かされた。よもは金部長が事前に日本側の手の内を知っていたとは夢にも思っていなかったのだろう。いずれにせよ、金部長はこの一言で大野副総裁の心を捉えてしまった。
KCIAの工作により、日韓予備会談は韓国側の成功裏に終わった。特に、この会談をきっかけに二人が意気投合したことは日韓条約を推進するうえで大きな転換点となった。
韓国嫌いだった大野副総裁は一転「親韓派」に転じ、翌年の1963年12月の朴正煕大統領就任記念式典に政府の特使として訪問するなど日韓国交正常化のための重要な橋渡しを担うようになった。
以上が、事の顛末だが、結局、この「竹島爆破案」は日韓ともに国内から「自国の領土に爆弾を投下するとは何事か」と激しい批判にさらされるのを恐れ、外交交渉の場でも、政治家による非公式の場でも一度もまともに議論されることはなかった。