Yahoo!ニュース

国の特別天然記念物トキを蘇らせたのは持続可能な農業だった《シリーズ・ネオニコチノイド問題を追う》

猪瀬聖ジャーナリスト/翻訳家
トキが舞う佐渡の里山(筆者撮影)

(この記事の取材費用の一部に一般社団法人アクト・ビヨンド・トラストからの助成金を用いています。なお、編集権は筆者に帰属します。)

4年ぶりに行動制限のない夏休みとなった今年の夏は大勢の旅行客が全国の観光地に足を運んだ。筆者が8月前半に取材で訪れた佐渡島(新潟県佐渡市)も、ホテルやレンタカーの予約がなかなかとれないほどの賑わいぶりだった。

学名「ニッポニアニッポン」

佐渡の観光地と言えば、世界文化遺産への登録を目指す佐渡金山遺跡が有名だ。その次に人気なのが国の特別天然記念物トキを間近で見ることのできる「トキの森公園」。佐渡を訪れる観光客の3人に1人が立ち寄るという。筆者が取材中も、団体客や家族連れ、カップルらが次々と来園し、飼育中のトキの写真を撮ったりパネルの説明を熱心に読んだりしていた。

トキは体長70~80センチ、翼を広げると両翼1メートル40センチほどにもなる大型の野鳥で、風切り羽の美しいピンク色は朱鷺(鴇)色と呼ばれるなど、昔から日本人に愛されてきた。「ニッポニアニッポン」という学名も日本人がトキを身近に感じる理由だ。

そのトキがなぜ昭和の末期に絶滅し、どうやって、ここ佐渡で野生に戻されるまでに個体数が回復したのか、その理由を探るのが取材の目的だった。

農薬がとどめ

絶滅と復活の経緯について佐渡市農業政策課トキ・里山振興係の土屋智起主任はトキの森公園内を案内しながらこう説明してくれた。

江戸時代、トキは各藩によって手厚く保護され、日本列島の広い範囲に生息していた。ところが明治になると、宝飾品として高く売れる羽を目当てに乱獲が進むなどした結果、生息数が激減。戦後、本格的に普及し始めた農薬の影響で餌となるドジョウやカエル、カニ、バッタなどが水田地帯から姿を消したことが、とどめを刺した。

1970年に本州最後のトキとして能登で捕獲され佐渡に移送された雄の「能里(ノリ)」を死後、解剖したら水銀が検出された。水銀は戦後の一時期、その有害性が明らかとなるまで、農薬として広く使用されていた。農薬はトキ絶滅の間接的な原因となっただけでなく、直接トキの体を蝕んでいたようだ。

飛んでいるトキを発見(筆者撮影)
飛んでいるトキを発見(筆者撮影)

500羽超に回復

1981年、野生の最後の5羽が佐渡で捕獲され、野生のトキは日本から姿を消す。保護したトキによる人工繁殖の試みも失敗に終わった。しかし、同時期に始めた中国との協力による人工繁殖の試みを続けた結果、1999年、トキの森公園内にある佐渡トキ保護センターで国内初の人工繁殖に成功。その後、順調に個体数が増え、2008年、自然界への放鳥を開始した。

現在、佐渡には野生のトキが500羽以上、生息している。ただ、トキは警戒心が強く、なかなか人前に姿を現さない。滞在中、かろうじて何度か、遠くに飛んでいるトキを見ることができた。

放鳥にあたり関係者が一番懸念したのが餌だった。トキの生態を知る佐渡の人たちは「トキは不器用だ」と口をそろえる。土屋主任によると、トキは反射神経があまりよくなく、すばしっこく動く魚は捕まえられない。また力もそれほど強くないため、アオサギやカラスなどと餌の奪い合いをすると、負けてしまうという。放鳥を成功させるには、農薬の使用量を減らしたりするなどして、餌となる小魚や両生類、昆虫などの数を十分に増やすことが必須条件だった。

「朱鷺と暮らす郷認証制度」がスタート

トキの放鳥計画が動き出していた2004年、台風が相次いで佐渡を襲い、佐渡の米は大凶作に見舞われた。ある農家の話によると、かつて佐渡の米は、新潟・魚沼産とほとんど変わらない値段で取引されていたという。それくらい高品質だったが、大凶作でいったん失った市場シェアを取り戻すことは容易ではなかった。佐渡の米作りは大ピンチを迎えた。

そこで、他の産地との差別化を狙って打ち出したのが、農薬や化学肥料をできるだけ使わない、生きものと環境に優しい米作り。今で言う持続可能な農業だ。2008年、市は「朱鷺と暮らす郷認証制度」をスタート。農薬・化学肥料の使用量を大幅に減らす、畦(あぜ)に除草剤を散布しない、生きもの調査を年2回実施する、などの条件を満たして栽培した米を市が認証するという内容で、認証米にはトキをかたどった認証マークが付与される。

認証の要件となる農薬・化学肥料の削減幅は、現在は佐渡地域の一般的な使用量に比べて5割以上の削減(慣行比5割減)が義務付けられている。

朱鷺と暮らす郷認証米(筆者撮影)
朱鷺と暮らす郷認証米(筆者撮影)

ネオニコチノイド系農薬の使用を中止

認証制度のスムーズな導入には、農家や農協の協力が欠かせなかった。そのための強力な追い風となったのが、同じ年にスタートしたトキの放鳥だった。農薬や化学肥料の大幅な削減は、農家にとっては収量減のリスクが高まり、農協にとっては農薬や化学肥料の売り上げ減につながりかねない。だが、目立った抵抗や反対の動きはなかったという。トキの放鳥をいかに成功させるかが、最大の懸案だったためだ。

JA佐渡・販売企画課の駒形憲昭課長は当時を振り返り、「収量減が農家の一番の懸念だったが、最後はみんな納得した」と話す。農協の売上高が減ることに関しても、「どうすれば農薬や化学肥料の使用量を減らせるかしか頭の中になかった」という。  

これを機に、佐渡は持続可能な米作りへと大きく舵を切った。画期的だったのは、2015年にJA佐渡がネオニコチノイド系農薬の米作向け販売を中止したことだ。この流れで2018年から、JA佐渡が販売する米はすべてネオニコチノイド系農薬を使わずに栽培した米に切り替わった。

「生きものを育む農法」の導入

ネオニコチノイド系農薬は害虫駆除を目的とした殺虫剤で、1990年代から各国で急速に普及した。しかし、生態系への深刻な影響や、子どもの発達障害との関連が一部の研究者によって指摘され、安全性に対する懸念が高まった。

このため欧州連合(EU)は2020年までに原則使用禁止し、米国でも多くの自治体が規制強化に乗り出すなど、海外では追放の動きが目立っている。日本では、一部の野菜に対する残留基準が緩和されるなど、海外とは逆の動きが起きており、規制強化や使用禁止を求める声が消費者団体などの間で高まっている。

認証制度に関しても、2017年産から「生きものを育む農法」の実践が認証の要件に追加された。同農法は、「江(え)」と呼ぶ水をためるための溝を水田の周りに掘ったり、ビオトープを設置したりするなど、生きものがより暮らしやすい環境を整えることが目的だ。

認証を受けた水田は現在、全作付面積の約2割だが、市によると全体の約9割は農薬・化学肥料の慣行比5割減を実践している。

JA佐渡の決断

では、認証制度の導入やネオニコチノイド系農薬の使用中止は実際にトキの復活に影響したのだろうか。

米・野菜農家の齋藤真一郎さんは「当然、影響した」と断言する。齋藤さんは早くからトキの復活に関心を寄せ、仲間と「トキの田んぼを守る会」を立ち上げるなどして持続可能な農業の推進を後押ししてきた。

齋藤さんはネオニコチノイド系農薬の追放にも深くかかわった。2011年、新潟市内で開かれた有機農業の勉強会に参加した時に、ネオニコチノイド系農薬とは何なのかを初めて詳しく知ったという。「当時、殺虫剤と言えばほとんどネオニコチノイド系だった。詳しく知ったら、これはまずいなと思った」。勉強会で得た情報をJA佐渡の幹部に話したら、すぐに検討会が立ち上がった。

「JA佐渡の決断は大きかった。ネオニコチノイド系農薬の使用をやめなければ、トキはここまで増えなかったかもしれない」と齋藤さんは話す。

「不器用でシャイなトキは佐渡人の化身」と話す齋藤真一郎さん(筆者撮影)
「不器用でシャイなトキは佐渡人の化身」と話す齋藤真一郎さん(筆者撮影)

赤トンボやホタルも増えた

トキ・里山振興係の池田一男係長も「放鳥開始後、生息数が伸び悩んだ時期もあったが、その後再び増え始めた。因果関係を証明するエビデンスはないが、取り組みの方向性は間違っていなかったと思う」と語った。

佐渡では、何人もの人から一昔前に比べて赤トンボやホタルの数が明らかに増えたという話を聞いた。また、水田に生物が増えたせいか、海鳥であるウミネコの姿を水田でよく見かけるようにもなったと話す人もいた。

大きな反響

持続可能な農業が佐渡にもたらしたものは、トキの劇的な復活だけではなかった。ネオニコチノイド系農薬と決別した話は2021年、TBSテレビ「報道特集」でも取り上げられ、「大きな反響があった」(渡辺竜五市長)という。インターネット上では「佐渡米を食べたい」といった投稿が相次ぐなど、佐渡米の知名度アップにも貢献したようだ。

子どもたちの健康のため学校給食に有機食材を取り入れるよう市民らが運動している東京都内の自治体が、2年前から学校給食に佐渡米を使い始めたという話も現地で耳にした。

渡辺市長は「地域活性化のためには、若い人が佐渡に魅力や誇りを感じ、住みたいと思える街づくりをすることが大切」と述べた上で、「生物多様性を育む農業を守り、推進していく中から生まれた美しい自然や、豊かな暮らし、伝統文化、米をはじめとするおいしい食べ物はすべて、若い人が具体的にイメージできる佐渡の魅力となり得る」と持続可能な農業がもたらす多様な効果を指摘した。

インタビューに応じる渡辺竜五市長(筆者撮影)
インタビューに応じる渡辺竜五市長(筆者撮影)

国連のお墨付き

佐渡の持続可能な農業がどれほど本物かは、国連がお墨付きを与えている。佐渡市は2011年、国連食糧農業機関(FAO)が認定する「世界農業遺産」に石川県の能登地域と共に日本で初めて選ばれた。市が作成したパンフレットによると、世界農業遺産は「自然と共生する農林水産業が育む、豊かな生態系や、美しい景観、伝統文化・芸能などが残されている世界的にも重要な地域」が対象。FAOの公式サイトは佐渡市の農業遺産を「トキと共生する佐渡の里山」と紹介している。

取材の中で何人かからこんな話を聞いた。水田に舞い降りるトキを観察していると、なぜか農薬を減らした水田ではなく、農薬を減らすことに反対している農家の水田に舞い降りることが少なくなかったという。すると、自分の水田にトキが舞い降りるのを目撃した農家はみな、考えを改めて農薬を減らしたというのだ。その姿はまるで、トキが佐渡の人々に「がんばれ」とエールを送っているように映ったという。

ジャーナリスト/翻訳家

米コロンビア大学大学院(ジャーナリズムスクール)修士課程修了。日本経済新聞生活情報部記者、同ロサンゼルス支局長などを経て、独立。食の安全、環境問題、マイノリティー、米国の社会問題、働き方を中心に幅広く取材。著書に『アメリカ人はなぜ肥るのか』(日経プレミアシリーズ、韓国語版も出版)、『仕事ができる人はなぜワインにはまるのか』(幻冬舎新書)など。

猪瀬聖の最近の記事