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織田信長が大坂本願寺との戦いで用いた鉄甲船は、本当に鉄の装甲で覆われていたのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
黒船。(写真:イメージマート)

 東映創立70周年を記念し、織田信長と濃姫を主人公にした映画『レジェンド&バタフライ』が上映中である。今回は、織田信長が大坂本願寺と毛利氏との戦いで用いた鉄甲船について考えてみよう。

 織田信長と敵対する大坂本願寺と毛利氏の攻防戦としては、天正6年(1578)における第二次木津川口の戦いが有名である。木津川口は、大坂湾の制海権をめぐる戦いだった。

 信長は毛利水軍を打ち破るため、九鬼嘉隆に命じて6隻もの鉄甲船を作らせた。これは大型の安宅船と考えられている。

 安宅船とは、本格的木造軍船の総称で、大型商船の屋形などを堅木の厚板で囲い、正面に大砲、側面には弓矢鉄砲を備え、上甲板上には2層または3層の櫓を設置した。

 鉄甲船の長さは12.3間(約21.8~23.6m)で、幅は7間(約12.7m)だったという(『多聞院日記』)。乗船した人数の5千人は無理な数字で、6隻に5千人(1隻に8百人程度)と考えるべきだろう。

 船は鉄で覆われ、砲撃の被害を最小限に抑える構造になっていた。ただし、鉄甲船はすべてが鉄でできているのではなく、限られた箇所に薄い鉄の装甲が施されたと考えられている。

 『多聞院日記』は一次史料なので、その記述を信頼すべきという意見もあるが、あくまで伝聞が多いことに注意が必要だ。

 一方、尊経閣文庫の『信長公記』の写本には、長さが18間(約32.4m)で、幅が6間(約10.8m)と書かれており、こちらの記述が妥当であるという。ただし、鉄の装甲があったか否かは、『信長公記』にも記されておらず、いささか疑問が残る。

 オルガンチノの報告書によると、鉄甲船はポルトガルの軍船に類似しており、日本でも作られていたことに驚愕している。日本の造船能力はかなり高かったので、全面が鉄の装甲ではなかったにしても、装甲として部分的に用いられた可能性はある。

 一説によると、鉄甲船は鉄の装甲が施されておらず、単に南蛮風の真っ黒な船だったのではないかとも指摘された。鉄甲船は毛利水軍を撃破するのではなく、毛利氏による大坂本願寺への兵糧運搬を阻止するのが目的だったという。

 つまり、鉄甲船は海上に浮かぶ、船の要塞的なイメージだったようである。毛利氏の水軍は鉄甲船の存在により、湾内に突入し難くなったので、攻撃よりも威嚇が目的だったことになろう。しかし、威嚇だけでは意味がないようにも思える。

 信長の鉄甲船の問題は極めて難解であるが、現時点では決定的な説がないといえよう。今後の課題である。なお、戦いは最終的に織田軍の勝利に終わり、大坂湾の制海権を掌中に収めたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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