故人の夢を乗せ、本日、絶対王者に挑戦する1頭の馬と男達の想い
それぞれの出会い
「自分が騎手試験に受かった時に騎手候補生として入ってきました」
高市圭二との仲をそう語るのは調教師の大江原哲だ。
「『兄貴』と言って慕ってくれたので、よく面倒を見ました。それ以来、ずっと付き合いは続いたけど、彼が一人前になってからは恩返しとばかりに良くしてくれました」
「最初は『怖い人』という噂を耳にしました」
そう語るのは持ち乗り厩務員の佐藤佑輔。1983年3月30日生まれだから間も無く37歳になる。仙台の競馬とは無縁の家庭で育ったがゲームで競馬を知り、高校在学時に乗馬を始めた。20歳で牧場勤務をした後、2008年の7月からトレセン入り。すぐに高市の下で働くようになった。
「馬でも人でも身だしなみについては口うるさく言われました。厳しいけど優しい人で、怖くはありませんでした」
「前にいた厩舎を辞める事になった際、拾ってくれたのが高市先生でした。面識はなかったけど、いつも格好良く馬に乗っているというイメージは持っていました」
そう言うのは高橋孝太朗。1975年12月生まれで現在44歳の持ち乗り厩務員は「よく叱られたけど、根は優しい先生でした」。一度はこんな事があったと続ける。
「自分の担当馬が1点何倍という圧倒的1番人気に推され、3馬身差で勝ちました。でも、先生に『勝てば良いってもんじゃない。なんだ、あの毛艶の悪さは!』って無茶苦茶叱られました」
「自分は叱られた事もレースで注文をされる事もありませんでした」
そう口を開いたのは騎手の金子光希だ。3月10日に38歳になったばかりの騎手は続ける。
「『この馬はどう育てていこうか?』と意見を聞かれる事も多々ありました。視野を広く持った調教師という印象でした」
指揮官、倒れる
そんな高市が最初に倒れたのは17年の夏。札幌での事だった。精密検査した結果、珍しいタイプの癌と分かり治療のため1年近く現場を離れざるをえなくなった。
「連絡があり、病状を聞きました。入院後は何回も見舞いました。会う度やつれていく姿を見た時は、『ヤバい……』と思いました」
大江原はそう言うが、高市は厩舎のスタッフには病状を告げていなかった。佐藤は言う。
「本人からは普通の業務連絡が来ていました。だから調教助手からかかってきた別の電話で倒れた事を知りました。病状については何も聞かされませんでした」
首肯して同意するのが高橋だ。
「僕は札幌にいました。『背中が痛い』と言っていたので検査に行く事を勧めました。検査後は『入院するけどすぐ治る』というので信じていました」
金子もスタッフからの報告で、指揮官が不在になったと耳にした。
「比較的早い段階で聞きました。心配はしたけど、自分は厩舎スタッフではないので遠くから静観していました」
18年6月。高市が競馬場に戻って来た。
「一緒に食事をしたら全部食べていました。これなら定年まで務めてくれるって思いました」
当時をそう述懐するのは高橋だ。
「元気になってくれてホッとしました」
金子はそう言った。
しかし、現場に復帰こそしたが、高市の闘病生活は依然、続いていた。唯一、聞かされていた“兄貴”である大江原は言う。
「色々な治療法を取り入れたけど、苦しそうで、見ているのも辛かったです」
シングンマイケルで初のG1制覇
そんな状況下、明るいニュースを届けてくれたのが佐藤の担当するシングンマイケルだった。高市が手掛けたシングンオペラの数少ない産駒であるこの馬は、高市が入院している間に障害入り。金子と共に着実に階段を上り、オープン入り。高市が育て地方交流重賞を席巻したファストフレンドのネームプレートのかかる馬房に入れられた同馬は、18年11月、福島で障害オープンを楽勝した。しかし、実はその時も決して順風満帆だったわけではなかった。佐藤は言う。
「その少し前に坂路でアクシデントがあり、先生から平地で仕上げるように指示されました。ただ、テンションが上がる馬だったので、平地で乗りこなすのは難しく、悩みました」
そんな時、助けてくれたのが高橋だった。
「『調教は徹底的に金子君に乗ってもらい、坂へ行けない分、プールに入れてはどうか?』と言いました」と高橋が言えば「それが正解でした」と佐藤。
「毎日の調教は決して楽ではなかった」と言う金子も、「でも……」と続けた。
「でも、付きっ切りになったお陰でシングンマイケルとの信頼関係は深まりました」
結果、シングンマイケルは19年の東京ジャンプS(J・G3)、東京ハイジャンプ(J・G2)、そして暮れの中山大障害(J・G1)と3連勝。高市にとって初めてとなるJRAでのG1制覇を成し遂げてみせた。
東京ジャンプSこそ乗れなかったが、他のレースには騎乗していた金子は言う。
「中山大障害は前走から2か月以上、間が開いていました。でも『この過程で大丈夫』と英断をくだした先生のお陰で僕も初めてのG1を勝てました。大障害の直後に抱擁をしたのですが、あの時の弾けるような笑顔は忘れられません」
当時を思い起こすと、今でも笑みがこぼれるのが大江原だ。
「依然として苦しい闘いが続いていたのは知っていたので、本当に良かったなって思いました」
佐藤は次のように言う。
「勝っても反省点を口にする事の多い先生でしたが、この時はホッとしている感じで『記念にマイケル専用の馬服を作ろう』と言っていました」
更にもう1つ、印象に残った事があったと続ける。
「口取り写真では皆に中央に行くようにすすめ、自分は端に行ったのも先生らしいと思いました」
こうして皆が喜んだこの瞬間にも、砂時計の砂は刻一刻と残り少なくなっていた。
他界。残された男達の想い
事態が急転したのは1月1日。元日、高市はまたも倒れ、病院に搬送。緊急手術が施された。当時を思い出す大江原の表情が曇る。
「病院へ駆けつけると主治医から『いくばくもない』と聞かされました」
その後、シングンマイケルはJRA賞の最優秀障害馬に選出されたが、1月27日、同賞の授賞式を、高市は欠席した。
「先生と一緒に出席したかった」
金子がそう言えば、佐藤も当時、皆と誓い合ったという言葉を口にした。
「もう一度、選出されるように努力して、次回は先生も一緒にこの席に戻って来られるようにしようと話し合いました」
しかし、そんな願いはかなえられなかった。2月12日に大江原が見舞った時、高市は声にハリがなく、喋るのも苦労していた。
「その2日後に業務連絡をLINEすると『すみません!!』という返事が来ました」
これが最後のやり取りとなった。更に3日後の17日。
「電話をしたけど応答がありませんでした。奥様にもかけたのですが、やはり出ません。おかしいな、と思っているとしばらくして奥様から折り返しがありました」
そして「今、亡くなりました」としらされた。
高橋が最後に連絡を受けたのは15日の事だった。この日、行われた東京競馬場のレースで、厩舎の馬が好走した。すると……。
「先生から『連闘しよう』とLINEが来ました」
翌16日、次週のレースの登録を、佐藤に頼んだ。佐藤が述懐する。
「登録を終え、先生にLINEで報告しました。でも既読になりませんでした」
高橋が引き取って続ける。
「佐藤君から既読にならないと聞きました。体調が相当悪い時でも仕事の連絡は絶やした事がなかったので、おかしいと思いました」
再び、佐藤。
「翌日、他の厩舎スタッフから電話がかかってきました。嫌な予感がしました」
悪い予感が当たった。師匠が息を引き取った連絡だった。
金子にどのようなシチュエーションで訃報を耳にしたかを聞くと、今でもうつろな目になり、答える。
「家で電話を受けました。いや、調整ルームだったかもしれません。ショックが大き過ぎて記憶が曖昧です」
すぐ未亡人のもとを訪ねた。すると……。
「奥様が僕の顔を見るなりボロボロと大泣きされました」
『主人は光希君で勝った中山大障害のビデオを何度も見返しては喜んでいました。光希君の顔を見た途端、それを思い出して……』
そう言いながら泣き崩れる夫人の前で、金子の瞳からも涙が止めどなく溢れた。思い出す金子の頬を今でも光るモノが伝う。
高市の忘れ形見であるシングンマイケルが、本日の阪神競馬場、第8レースの阪神スプリングジャンプ(J・G2)に出走する。ここから中山グランドジャンプ(J・G1)という臨戦過程は高市が生前に決めていた。
美浦に居残りテレビ観戦をする予定の高橋は言う。
「僕は完全にファン目線です。シングンマイケルに勝って欲しいけど、オジュウチョウサンも素晴らしい馬。好勝負を期待してワクワクしています」
新たにシングンマイケルを預かる事になった大江原も言う。
「好い結果を残して、何とか弟分に良い報告をしたい。今はそれだけです」
パドックで引っ張る予定の佐藤は語る。
「オジュウチョウサンは強いので簡単に勝てるとは思っていません。でも、高市先生は結果より過程を大切にされる方でした。そういう意味では胸を張って出せる状態にあります」
そして、縁起を担ぎ中山大障害勝利時に着ていたのと同じ勝負服を手にした金子は次のように語った。
「オジュウチョウサンはスターホースだし、トラストら他の出走馬も軽視は出来ません。ただ、高市先生は通算299勝で亡くなってしまったので、なんとか幻の300勝を達成させてあげたいという気持ちは強く持っています」
そして、自らに言い聞かせるよう続けた。
「高市先生が見た夢を、僕たち残された者が一緒にかなえていきたいです」
本日13時50分。シングンマイケルは高市が見る事の出来なかった専用の馬服を脱ぎ、ゲートインする。そしてここに紹介した5人の想いを乗せ、飛越する。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)