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【「麒麟がくる」コラム】天正6年。あっちこっち転戦した明智光秀を追い掛ける

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
天正6年の明智光秀は、休む暇もないほど、各地を転戦していた。(提供:アフロ)

■天正6年の明智光秀の動きは?

 NHK大河ドラマ「麒麟がくる」のなかでは、天正6年(1578)に各地を転戦した明智光秀の姿が十分に描かれているわけではない。

 以下、天正6年(1578)における明智光秀の状況を追うことにしよう。

■丹波から大坂へ

 天正6年(1578)3月、明智光秀は再び織田信長から丹波出兵を命じられた。光秀は丹羽長秀、滝川一益とともに丹波に向かい、波多野氏の籠もる八上城(兵庫県丹波篠山市)を取り囲んだ。

 ところが、今度は信長から光秀に対し、大坂本願寺を攻撃するよう命令された。同年4月4日、光秀は八上城に明智次右衛門らの軍勢を残すと、織田信忠の待つ大坂本願寺に向かい、4月5・6日に大坂近辺の麦苗を薙いだ。大坂本願寺を攻めたあと、光秀は再び丹波へ戻らなくてはならなかった。

 同年4月10日、光秀は長秀、一益とともに軍勢を率い、波多野氏の家臣・荒木氏綱の籠もる園部城(京都府南丹市)の攻略に取り掛かった。

 園部城は即日で落城したので、光秀は同城に軍勢を入れ置くと、今度は播磨へ援軍として出陣するよう信長に命じられた。

■播磨への転戦

 天正6年(1578)2月下旬、三木城(兵庫県三木市)主・別所長治は足利義昭、毛利輝元、大坂本願寺といった反信長勢力に与し、羽柴(豊臣)秀吉を裏切った。

 前年の天正5年(1577)10月、秀吉は信長から中国計略を命じられていたが、頼みだった長治の裏切りにより劣勢に立たされたのだ。

 加えて、直後の天正6年(1578)4月、上月城(兵庫県佐用町)が毛利方の軍勢に攻囲され、ついに落城した。上月城はかつて秀吉が攻略したが、奪い返されることにより、中国計略の先行きが怪しくなった。

 上月城は、播磨、備前、美作の国境付近に位置し、対毛利の戦略的、地理的にも重要な地点にあった。秀吉は、山中鹿介らが籠もる上月城を救出しようとしたが、信長の命により、放棄せざるを得なかったのだ。

■三木城攻め

 信長が秀吉に上月城の放棄を命じたのは、三木城の攻略に集中するためだった。秀吉が同時に上月城と三木城の敵と戦うには、非常な困難が伴ったのである。そして、秀吉が窮地に立たされたため、光秀は播磨への援軍を命じられたのである。

 同年6月以降、光秀は別所方の神吉氏の居城・神吉城(兵庫県加古川市)、同じく櫛橋氏の居城・志方城(同上)を攻撃した(『信長公記』)。

 その後、両城が落城すると、光秀は播磨から退却したようである。再び同年8月、光秀は丹波に出兵するが、この頃に娘の玉(ガラシャ)は藤孝の子・忠興のもとに嫁いだ(『細川家記』)。2人の結婚は、光秀と藤孝・忠興父子との関係を強化する政略的なものだった。

 なお、三木城の戦いの結末を先取りすると、天正8年(1580)1月、別所長治自らが切腹することで戦いは終結する。降伏の条件は、城兵の命を助けることだった。

 この頃の光秀は信長の命により各地を転戦しており、心身ともに疲れ切っていたに違いない。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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