ロシア 対独戦争記念パレードを巡るポリティクス
戦勝記念日がやってくる
5月9日。
68年前のこの日、ナチス・ドイツはベルリンを占領したソ連軍に対して降伏文書に調印し、第二次世界大戦は終結した。
「大祖国戦争」(ロシアでは第二次世界大戦をこう呼ぶ)においてソ連は実に2600万人もの死者を出し、国土の主要部を焦土化しただけに、勝利の記憶は国家の重要なアイデンティティである。
また、ナチズムの悪夢から欧州を解放したのだ、という自負もある(スターリン体制がナチズムと比べてどれだけマシであったかはまた別として)。
それだけに、5月9日の対独戦勝記念日は、ロシアで最も重要な祝日のひとつである。
戦勝記念日の重要イベントは、なんと言っても軍事パレードだ。パレードはロシアの主要都市各地で行われるが(今年は24都市で実施)、最も大規模なものはやはり首都モスクワの赤の広場で行われる。今年は例年通り、ロシア連邦軍、内務省国内軍、連邦保安庁国境軍、国家非常事態省民間防衛軍の1万1000人が参加した。こほのかに、車両101両と航空機68機が行進および飛行展示を披露している。
ロシア帝国、ソ連、そして現代ロシアの混交
今年のパレードは、全体的に懐古調が目立った。
たとえばパレードの冒頭、儀仗兵の一団がロシア連邦の国旗と戦勝記念旗を掲げて行進を行ったが、彼らの所属部隊は正式名称を「プレオブラジェンスク連隊」と言う。
歴史に詳しい方ならばすぐにピンとくるかと思うが、これはピョートル大帝が悪童を集めて作った親衛隊の名である(そしてピョートルが近代ロシア軍の建設に着手するとき、その基礎ともなった)。今年4月5日、プーチン大統領の大統領令により、クレムリンの儀仗連隊がこの歴史ある名称へと改名されたのだった。
また、同じ大統領令より、モスクワで発足したばかりの憲兵連隊が「セミョーノフ連隊」と名付けられた。これもプレオブラジェンスク連隊と同様、ピョートルが創設した連隊の名である。
皇室からつまはじきにされ、なかば見捨てられたような子供時代のピョートルは、この二つの連隊を戦わせて遊んでいたのだ。
さらにパレード直前、ロシア国防省は、モスクワ州内に駐屯する2つの旅団に、ソ連時代の名誉称号を与えると発表した。
対象となるのは第5独立自動車化歩兵旅団と第4独立戦車旅団で、それぞれ「タマン名称赤旗勲章授与親衛自動車化歩兵師団」と「カンティミール名称レーニン・赤旗勲章授与戦車師団」に改名された。
字面だけ見ると、まるでソ連時代に逆戻りしたかのような名称だが、この種の名称は2007年にセルジュコフ前国防相による大規模な軍改革が始まるまで、ロシア軍のそこかしこに残っていた。
一方、軍改革によって再編された部隊は「第○自動車化歩兵旅団」などと機能的だがそっけない名前になっており、上記のような長ったらしいソ連式名称とは好対照を成している。
つまり今年のパレードでは、帝政ロシア時代、ソ連時代、そして現代ロシアの名称をそれぞれ与えられた部隊が一緒にパレードをしたわけである。
滲む軍への配慮
このような事態の背景には、政権側の軍への配慮がある。
前述したセルジュコフ前国防相の軍改革は、ソ連時代から脱しきれないまま弱体化したロシア軍をショック療法で一気に改革しようというものであり、実際、大きな成果を収めたが、軍からの反発は強烈であった。
改革の過程で大量の軍人が解雇された上、現場の意見を無視した改革が強行されたためだ。また、先ほどの名誉称号がただの数字に取って代わられた例にも見られるように、軍人達の名誉をあまりも軽んじるところがあった。
しかもセルジュコフは性能のよくない国産兵器に代わって外国製兵器を積極的に導入する方針をとった。装備品の価格値上げに対しても強い姿勢で臨み、2011年にはあまりにも価格高騰が著しい軍需企業に対して国家予算の支出を停止するという措置にまで踏み切っている。
こうした強硬策は、しかし、軍や軍需産業の強烈な反発を招いた。この結果、昨年10月、突如として国防省ぐるみの大規模な汚職事件が暴露され、さらにセルジュコフも愛人の部屋に居るところに踏み込まれるなど、最大限に彼の名誉を傷つけるようなやり方で失脚させられた。
こうした政変の後だけに、政権側としては軍に最大限配慮してみせる必要があったのだろう。
しかも「配慮」は名称だけに留まらない。
たとえば今年のパレードに、ショイグ国防相は上級大将の軍服を着て出席した。これまでのイワノフ国防相やセルジュコフ国防相が文民であり、したがってスーツ姿で出席していたのと対照的だ。
実はショイグ氏自身も正式には軍人では無く、国家非常事態相を務めていた時期に一種の名誉称号として上級大将の階級を与えられたに過ぎない。それも2012年に非常事態相からモスクワ州知事に転じる際、返上していたのだが、セルジュコフの後任として国防相に指名された際、再授与されたという経緯がある。
ショイグ氏は清廉潔白な上に有能な危機管理担当者として知られ、国民的な人気を誇るが(最近の世論調査で「大統領にふさわしい政治家No1」に輝いている)、そこに将軍としての権威を持たせることで、軍の掌握の助けとしようとしたのだろう。
もうひとつの「配慮」として指摘されるのが、パレードから外国製装備が排除されたことだ。
ロシア軍は我が国の軽装甲機動車に似た装輪式装甲車「ティーグル」の調達を進めていたが、セルジュコフ国防相は性能に不満であるとして一方的に調達を打ち切り、代わりにイタリアのIvecco社製装甲車をロシア国内でライセンス生産する方針を採用した。そして2012年のパレードには「ティーグル」と並んでこのイタリア製装甲車が登場したのだが、今回、パレードに登場したのは「ティーグル」のみであった。
これは明らかに軍需産業への配慮であろう。
ティーグルの調達中止に軍需産業は猛反発しており、選定過程が不透明だとか、雪上性能ならティーグルの方が上だとか言った大論争になっていたためだ。また、セルジュコフは既にフランス製の揚陸艦やイスラエル製無人偵察機の導入を決定すると共に、イタリアから「チェンタウロ」装輪式戦車を調達する意向を示してもおり、このままではロシア軍の装備に対する軍需産業のシェアが低下してしまうとの危機感が募っていた。
それだけに、今回のパレードで外国製兵器が排除されたのは政治的な配慮であったと軍事専門家のイーゴリ・コロトチェンコ(軍事専門誌「国防」編集長)は指摘している(RIA Novosti, 2013.4.19)。
軍改革の行方は?
だが、気になるのは、軍に対して配慮するあまり、軍改革が将軍達のいいように骨抜きにされてしまうのではないか、という点だ。
たしかにセルジュコフの改革は軍の強い反発を招いたものの、その基本的な方向性は間違っていなかったし今後も維持されるべきである、というのが多くの軍事専門家の見解である。
たとえば改革前のロシア軍はソ連時代からの師団という単位(1万人規模)をそのまま維持していたが、大部分の師団はろくに兵員が充足されておらず、ただちに戦える状態ではなかった上、いざ戦うとなると規模が大きすぎて、冷戦後に増加した局地戦では逆に使い勝手が悪かった。
セルジュコフの下で制服組トップを務めたマカロフ前参謀総長に言わせれば、師団を局地戦に投入するのは、「恐竜が通りを歩くようなもの」だったのである。
これに対してセルジュコフ改革では、原則的に師団は解体され、より小規模(3500人)な「旅団」が中心になった。これならば常に人員を充足して即応状態を保て、しかも紛争地域まで迅速に展開して小回りの効いた作戦が行える。
一方、上述のように、すでに陸軍では2つの旅団が師団編成に戻された。さらに国防省は今後、他の旅団も師団へと戻していく予定であるという。
だが、これまで見てきたように、師団から旅団への改編は、冷戦後の戦略的環境を反映した改革であった。
にもかかわらず、軍が師団への回帰を望むのは、師団の方が高級ポストの数が多く、昇進の機会が増えるためだ。また、軍の中には、旅団ばかりでは万が一、NATOとの大規模戦争が発生した場合に対応しきれないと考える保守主義者も居る。
仰々しいソ連式名誉称号が軍人達を慰撫する程度に留まっていればよいが、ポスト冷戦型へと折角転換しつつあったロシア軍の行方がどうも危うくなっているように見える。そのような危惧を抱いた軍事パレードであった。