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【深掘り「鎌倉殿の13人」】安達盛長が「13人の合議制」に加えられた当然の理由

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
安達盛長は、伊豆に流された源頼朝をよく助けた。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の27回目では13人の合議制が成立し、その1人に安達盛長が加えられた。盛長はいかなる人物だったのか、詳しく掘り下げてみよう。

■安達氏と安達盛長

 安達氏の来歴については、よくわかっていない。父は小野田兼広(あるいは兼盛)とされ、盛長の兄は藤原遠兼(足立遠元の父)であるといわれているが、信憑性には疑問が残る。

 保延元年(1135)、安達盛長は誕生した。若い頃の盛長について不詳であるが、妻は丹後内侍(比企尼の長女)だった。比企尼は源頼朝の乳母だったので、このことが盛長の運命を切り開いた。

 当時、乳母は養育した子に対して、強い影響力を持っていた。盛長が比企一族と繋がったことは、必然的に地位を上昇させることになったのだ。

 平治元年(1159)に平治の乱で源義朝が敗北すると、頼朝は伊豆に流された。比企尼は頼朝の乳母だったので支援を惜しまず、娘婿の盛長も同じだった。一説によると、頼朝と政子の間を取り持ったのは、盛長だったといわれている。

 当時、頼朝は流人だったので、表だって家来を持つことは許されなかった。しかし、盛長は頼朝の身辺で、甲斐甲斐しく世話をしていたのである。このことが頼朝の信頼を得るきっかけになったといえよう。

■重用された盛長

 治承4年(1180)に源頼朝が「打倒平家」の兵を挙げると、盛長もただちに応じた。しかし、頼朝は石橋山の戦いで無残な敗北を喫して安房に逃れた。盛長は頼朝と行動をともにし、千葉常胤を味方につけるなど大いに貢献した。

 盛長の貢献は頼朝に評価され、元暦元年(1184)頃には上野国の奉行人に任命された。文治5年(1189)の奥州征伐でも、盛長は大いに軍功を挙げたのである。

 建久10年(1199)1月に頼朝が亡くなると、盛長は出家して蓮西と名乗った。その後、盛長は「13人の合議制」の1人に加えられたのである。同時に、三河国守護にも任じられた。こうして盛長は、幕府内に確固たる地位を築いたのだ。

■むすび

 13人の合議制が成立すると、盛長がメンバーに加えられたのは当然のことだった。盛長は苦しい時代の頼朝を支え、側近として活躍したからだ。盛長は、翌年4月に亡くなった。梶原景時を糾弾した際は、盛長も大いに活躍したが、その点は追々述べることにしよう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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