越前朝倉氏は古代豪族の末裔で、かつては織田氏の同僚
朝倉氏を討伐するために越前に攻め込んだ織田・徳川連合軍は、金ヶ崎で近江の浅井氏の裏切りにあい、背後をつかれ窮地に陥った。この朝倉氏は古代豪族の末裔という珍しいルーツの戦国大名だった。
朝倉氏のルーツ
朝倉氏のルーツは但馬国養父郡朝倉(現在の兵庫県養父市八鹿町)。『越州軍記』では景行天皇、『朝倉始末記』では孝徳天皇の末裔としているなど諸説あるが、第9代開化天皇の皇子彦坐命(ひこいますのみこと)を祖とする日下部氏の末裔とみられている。古くは但馬国養父郡・朝来郡の郡司をつとめていた。
元弘3年・正慶2年(1333)に足利尊氏が丹波篠山で挙兵した際に、朝倉広景が従って斯波高経に属したことで史上に登場した。広景は建武4年(1337)斯波高経に従って越前に移り、越前朝倉氏となった。南北朝時代は、黒丸城に拠って北朝に属し、多くの氏族を出した。
斯波氏の重臣として
さて、朝倉氏は代々斯波氏の重臣であった。このとき、朝倉氏とともに斯波氏を支えたのが織田氏で、信長の先祖にあたる。のちに斯波氏が尾張の守護を兼ねた際に、織田氏は斯波氏とともに尾張に転じ、以後守護代として尾張の有力武士に発展した。
越前では朝倉氏が勢力を広げ、文明3年(1471)孝景は斯波氏の内紛に乗じて越前一国を実質的に支配し、一乗谷城を築城した。孫の貞景は、文亀3年(1503)におきた一族の謀反も素早く鎮圧して領国支配を確立、以後全国有数の戦国大名として活躍する一方、幕政にも深く関与して室町幕府を支えていた。
戦国大名に発展
戦国時代も朝倉義景は北陸の有力大名で、興福寺一乗院を脱出して還俗した足利義秋(のちの15代将軍義昭)は、自らを将軍位につけてくれる大名と期待して朝倉氏を頼っている。
しかし、義景には義秋を奉じて上洛する意図はなく、義秋は滞在9ヶ月で退去して織田信長を頼り、信長の庇護で上洛を果たした。
その後、義景は信長の上洛要請に応じず、浅井氏、本願寺と結んで織田信長と対峙した。天正元年(1573)一乗谷合戦で信長に敗れて大野朝倉氏の景鏡のもとに逃れたが、景鏡は義景を包囲して自害に追い込み朝倉宗家は滅んだ。
裏切った景鏡は、義景の首級とその母や妻子の身柄を信長に渡して降伏、自らは土橋信鏡と改称して信長の家臣となった。しかし、翌年起こった一揆で討死し、越前朝倉氏は滅亡した。