【深読み「鎌倉殿の13人」】源頼朝は義経の所領を没収し、叔父・行家の追討の命令を下した
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の第19回では、源頼朝と義経との確執が描かれていた。頼朝は義経の所領を没収し、叔父・行家の追討の命を下したが、その点を詳しく掘り下げてみよう。
■源義経の所領没収
元暦2年(1185)6月9日、源義経は兄の頼朝との面会が叶わず、虚しく腰越をあとにした。その4日後、頼朝は評定を催し、義経の所領の没収を決めた。義経は平家追討の功により、平家から没収した24ヵ所の所領を与えられていた。それをすべて没収したのだ。
そもそも義経は頼朝に無断で任官したとはいえ、盤石な経済基盤があったわけではない。それを奪われたのだから、義経は窮地に陥ったのである。ただし、この時点で義経の追討令は出されておらず、あくまで所領の没収に止まっていた点に注意すべきだろう。
■源行家の追討令
ほぼ同じ頃、頼朝の叔父の行家に対しては、追討令が下された。行家と言えば、以仁王の打倒平家の令旨を受け、頼朝とともに平家と戦った一族である。なぜ、行家は追討されねばならなかったのか。
行家は平家追討に力を尽くしたが、非常に行動がややこしい人物でもあった。最初は頼朝に味方していたが、自分の要求が受け入れられないと、次は木曽義仲と行動をともにした。むろん、打倒平家の立場は変わらない。
義仲が義経に討たれると、その後は義経と協力するようになった。つまり、義仲は打倒平家の立場だったが、行動に一貫性がなく、ことがうまく運ばなければ、人と人との間を渡り歩く性質を持っていた。
ほかに行家に問題があるとするならば、軍事的な才覚に乏しく、ほとんど戦果を挙げることがなかったことだ。行家は交渉能力には長けていたかもしれないが、武人としては落第だった。
平家の滅亡後、行家は西国で勢力を拡大すべく、再び暗躍していた。頼朝としては、いかに叔父であるとはいえ、もはや看過することができなかったのである。
行家の追討令が出されたのは、同年8月4日のことだった。むろん、行家は座して死を待つような男ではなく、同じ境遇だった義経と連絡を取り、頼朝に対抗しようとしたのである。
■むすび
平家追討の本懐を成し遂げた頼朝は、本格的な東国経営に乗り出した。その最大の障壁となるのが、源氏の一族だったのだから皮肉である。頼朝の父・義朝は、かつて父の為義(頼朝の祖父)と不和になった。
いかに一族であるとはいえ、頼朝の意向に沿わなければ、徹底して討伐する必要があった。義経も行家も決して従順とは言えず、将来の禍根になりかねなかったので、頼朝は非情な決断をしたのだ。