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【あの戦争】30代は開戦前に「敗戦」を予測 歴史に埋もれた「総力戦研究所」から学ぶこと

石戸諭記者 / ノンフィクションライター
多くの戦没者がでた「あの戦争」(写真:ロイター/アフロ)

 1941年8月に日本の敗戦は予測されていた。4ヶ月後、同年12月には真珠湾攻撃が始まる。そんな年の出来事である。

 予測したのは戦後に日銀総裁、東芝社長などを務めることになる将来を有望視された30代たち。彼らは国の命令で集められ、もう一つの内閣を作り、詳細なシミュレーションに取り組んだ。

 日米開戦の結果はどうなるか? 彼らの結論は「日本必敗」だったーー。

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未来の東芝社長、日銀総裁集った「総力戦研究所」

 「総力戦研究所」の存在を知っているだろうか。1941年=昭和16年4月に開所式があったばかりの組織である。集められたのは第一線で働いていた官僚、軍人、ジャーナリストらエリート36人である。彼らは30代ばかりで、その平均年齢は33歳だった。

 当時の日本において最良にして最も聡明な(ベスト&ブライテスト)と呼べる35人だった彼らは模擬内閣を作り、一つのミッションを命じられた。

「日本とアメリカが開戦した場合、日本はどうなるのか」

 東京都知事も務めた作家、猪瀬直樹氏が36歳のとき社会に送り出した一冊の本がある。『昭和16年夏の敗戦』

 猪瀬氏は総力戦研究所に集ったメンバーを取材し、膨大な資料を読み解き、「彼らはなぜ日本必敗と結論付けたのか」という歴史の謎に迫っていく。

 研究所に集った面々にはこんなメンバーがいた。「総理」役の窪田角一は戦後、農林中央金庫理事を務める。当時、猪瀬氏と同じ36歳だった。

 「日銀総裁」役の佐々木直は本当に日銀総裁を務めた。「企画院総裁」役の玉置敬三は通産省で事務次官を務めた後、東芝の社長に就任した。

シミュレーションで導いた「日本必敗」

 彼らはシミュレーションのために、「各大臣」は所属組織から産業や軍事力を分析するための基本的なデータを持ち寄り、組織の枠や論理に捉われることなく詳細に分析した。省益を超えて、曇りない目で議論を続けたのだ。

 象徴的なのはあの戦争で日本の命運を握った石油についての分析である。

 彼らは正確な石油備蓄量こそ重要機密のため把握できなかったが、「足りなくなる」と正確に予測していた。たとえ南方に進出して油田を確保できたとしても、日本まで運ぶことはできず、長期戦を耐えるために必要な量は確保できないと結論づけていたのだ。

 現実の歴史では、陸軍、海軍とも実際の石油備蓄量を明かさず「南方にある油田を占領すれば自給体制を確保できる」といった楽観的かつ裏付けの取れない「つじつま合わせ」のデータだけが一人歩きして、開戦の決め手になった。

 開戦後、石油は彼らの予測通りの展開となる。

 彼らはデータ以外でも事実に基づき、論理的に議論するという視点を持っていた。「海軍大臣」役の志村正はあるとき、研究所に講義でやってきた陸軍の軍人とこんな議論を交わしている。

 この軍人は「日本には大和魂があり、これこそがアメリカにはない最高の資源である」と説いた。志村はこれに毅然と反論する。

 「日本には大和魂があるが、アメリカにもヤンキー魂があります。一方だけ算定して他方を無視するのはまちがいです」

 都合の良い精神論と志村の反論と、どちらが正しいかは誰の目にも明らかだろう。志村は「窪田内閣」の閣議でもアメリカに「勝つわけないだろう」と断言した軍人だった。

 事実に基づく議論を積み重ね、1941年8月16日、「窪田内閣」は一つの結論に到達する。「日米戦日本必敗」。

 真珠湾攻撃と原爆投下以外をほぼ正確に予測したシミュレーションを現実の内閣の前で発表することになる。

東條英機の「反論」は精神論だった

 ここで猪瀬氏は歴史に隠された一つの事実を発掘する。「窪田内閣」の報告に、反論した一人の人物がいた事実である。彼は「窪田内閣」の閣議をたまに見学し、この日も熱心にメモを取っていたにもかかわらず反論した。その理屈はこうだ。

 曰く「君たち(※窪田ら)の研究は机上の演習であり、君たちの考えているようなものではない。戦というものは、計画通りにいかない。意外裡なことが勝利につながっていく」

 戦争では計算外のラッキーが起きることもあり、それが考慮されていないと批判をしたのは50代の陸相・東條英機――。1941年12月、日米開戦時の首相である。

 東條はさらに続けた。

 「なお、この机上演習の経過を、諸君は軽はずみに口外してはならぬということでありますッ」

 都合の悪い予測は一蹴され、多く人が知るように日本はあまりにも無謀な戦争になだれ込んでいく。

 口外を禁じられたこともあったのか。それとも、シミュレーション通りに動いた歴史への悔いなのか。彼ら自身も含めて、総力戦研究所のことを振り返る人はほとんどいなかった。

歴史に隠された「あの夏」の出来事

 猪瀬氏の取材を待つようにして亡くなった窪田「総理」の訃報を伝える記事が印象的だ。

 1985年10月1日、朝日新聞朝刊。

「窪田 角一氏(くぼた・かくいち=元農林中央金庫理事)9月30日午前6時12分、心不全のため、東京都目黒区の東邦大大橋病院で死去、80歳」

 あの夏の出来事は彼の人生の最後を伝える記事からもすっぽりと抜け落ちている。

 30代半ばで取材を始めた猪瀬氏は明らかに自分と同年代の彼らにシンパシーを抱きながら取材を進めている。作品にはことあるごとに登場人物たちの年齢が書かれていることが、その証左である。

「事実」の力

 この歴史から何を学ぶべきなのか。猪瀬氏の考察が示唆的だ。

 「彼らは決して反戦主義者ではないし、社会運動家でもなかった。その立場は、いわば体制の司祭というべきなのだろうが、机上演習のある段階で、瞬間彼らはその”立場”を超えていた」

 30代という年齢は大きなファクターだった。社会に出て約10年、学生ほど社会を知らないわけでもなく、50代ほど組織の論理の代弁者になるわけでもない。

 立場の代わりに、彼らが何よりも重視し、執着したのはデータを含めた「事実」だった。彼らは時の政治家や、組織の論理に染まった官僚のように目的のために事実を曲げることも、目的にあわせて事実を解釈することもしなかった。

 ただ「事実」から出発し、真摯に向き合ったことで日米戦争は必敗であり、アメリカと戦争をすべきではないという結論を導けたのだ。

 事実を見つめる目があれば、組織の利害や政治的な主義主張を超えて議論を交わし、論理的な結論に到達できる。それは希望であると同時に、私も含めた30代に強烈な問いを残す考察である。

 かつて30代だった筆者がたどったのと同じように、こう問いかけながら改めて昭和16年の夏を思い返してみたい。

 34歳になり彼らと同年代になった私は、彼らと同じ立場に立ったとき、どんな見通しを持ちえるだろうか。組織の論理や時代の空気に流されず、事実に基づき曇りなく考えることができるだろうか、と。

記者 / ノンフィクションライター

1984年、東京都生まれ。2006年に立命館大学法学部を卒業し、同年に毎日新聞社に入社。岡山支局、大阪社会部。デジタル報道センターを経て、2016年1月にBuzzFeed Japanに移籍。2018年4月に独立し、フリーランスの記者、ノンフィクションライターとして活躍している。2011年3月11日からの歴史を生きる「個人」を記した著書『リスクと生きる、死者と生きる』(亜紀書房)を出版する。デビュー作でありながら読売新聞「2017年の3冊」に選出されるなど各メディアで高い評価を得る。

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