室町幕府の足利将軍家とはどういう家か
「どうする家康」に古田新太演じる足利義昭が白塗りで酔っ払っているという衝撃的ないでたちで登場した。義昭は室町幕府の15代将軍で、実兄の13代将軍義輝が暗殺されたあと興福寺一乗院を脱出したものの、以後は流浪の身となり、織田信長の援助で上洛し将軍の座についたものだ。
名家足利将軍家の当主なのだが、そもそも足利氏とはどういう一族なのだろうか。
2つあった足利氏
足利氏のルーツは下野国足利郡足利荘(現在の栃木県足利市)である。ただし、実は足利氏には2つの流れがあった。
最初に栄えたのは、藤姓足利氏といわれる藤原北家で秀郷の子孫の足利氏。淵名兼行の子成行が足利郡に住んで足利大夫と称したのが祖で、足利荘を開発したとみられる。一族から佐野氏、大胡氏、木村氏など、多くの庶子家を分立させて平安末期には足利郡に大きな勢力を振るい、北関東を代表する有力武家となっていた。
源頼政が平氏政権に叛いて挙兵した際には、足利又太郎が郎党を率いて平家方として参戦、宇治川で先陣を切ったことが『源平盛衰記』に登場する。以後も一族は一貫して平家方に与した。
足利将軍家のルーツ
これに対して、のちに将軍家となる足利氏は清和源氏の一族で、源義家の子義国が祖。
義国は義家から下野国足利郡足利荘を譲られて土着、自らは鳥羽院の北面の武士となり、足利荘を鳥羽院領として寄進している。義国の子義康のときに足利氏を称し、保元の乱では後白河天皇方についた。
義康は妻が熱田大宮司範忠の娘で源頼朝の生母の姪であったことから頼朝と縁続きになり、その間に生まれた義兼は平家方に属していた藤姓足利氏と対抗するために源頼朝の挙兵に参加した。源平合戦で源氏が勝利したことから、源姓足利氏は藤姓足利氏に代わって足利荘を支配した。
また、義兼は北条時政の娘を娶り、以降は代々北条氏と姻戚関係を結ぶなど、昨年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の時代の有力武士であった。足利氏の邸宅跡は後に鑁阿寺(ばんなじ)となり、本堂は国宝に指定されている。
さらに、暦仁元年(1238)には義氏が三河守護となり、一族は下野と三河に多く広がるなど、鎌倉幕府の御家人としては最上位の一族に発展した。分家には今川氏をはじめ、細川氏、吉良氏、畠山氏など、多くの有力一族がある。
将軍家として
鎌倉時代末期、尊氏は後醍醐天皇とともに鎌倉幕府を滅ぼしたのち、建武政権とは袂を分かって、京に室町幕府を開いた。以来15代にわたって将軍を継承したものの、次第にその力はおとろえ、後半は各大名が実力で所領を奪い合う戦国時代となっている。
しかし、力が衰えたとはいえ武家の棟梁である将軍であることには違いなく、「どうする家康」での演出はかなり斬新といえる。
なお、「足利」を名乗った分家としては、下総古河(現在の茨城県古河市)を本拠とした古河公方、阿波平島(現在の徳島県阿南市)を本拠とした平島公方などがある。