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【戦国こぼれ話】九州の雄だった薩摩島津氏は、なぜ急速に弱体化したのか。その謎を探る

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
島津家の家紋「島津家下がり桐」。(提供:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

 島津氏に関する史料を多数展示する尚古集成館(鹿児島市)が、7月から営業を再開するという。ところで、天正15年(1587)の豊臣秀吉による九州征伐後、島津氏は急速に弱体化したといわれているが、その原因を探ることにしよう。

■兄弟の待遇の差

 天正15年(1587)の九州征伐において、島津義久・義弘兄弟は豊臣秀吉に屈した。直後に行われた九州国分で諸大名に領知が配分され、島津氏の九州統一の夢は潰えた。

 九州国分後の天正16年(1588)になると、秀吉から義久の弟・義弘に羽柴の名字と豊臣の本姓が授けられた。しかも、豊臣家との取次は、義弘が担当することになった。義弘は、秀吉から目を掛けられたのだ。

 天正17年(1589)11月、島津家の家督は、秀吉の命により義弘の子・久保(ひさやす)が継承者に定められた。一連のことから、義弘は秀吉から優遇されたのは明らかである。

 翌年、兄の義久は羽柴の名字を授けられたが、豊臣の本姓は与えられなかった。つまり、義久は秀吉から優遇されることがなかった。弟の義弘が厚遇されたのだから、義久に不満が生じたのは言うまでもないだろう。

 一連の処遇の差によって、義久・義弘の兄弟間に亀裂が入るのには時間が掛からなかった。これが秀吉によって意図的に行われたのか不明であるが、島津家中にとっては不幸な出来事だった。

■文禄の役での失態

 文禄元年(1592)の文禄の役では、義久が病気のために出陣できず、代わりに義弘が朝鮮へ向かった。しかし、旧態依然とした島津領国は財政状況が芳しくなく、肥前名護屋城(佐賀県唐津市)の普請、そして出陣による軍費負担が重荷となっていた。

 その挙句、島津氏は朝鮮への「日本一の遅陣」と称される大失態を演じてしまう。以後も財政状況の悪化は尾を引き、義弘の活躍は目立たなかった。しかも義弘の子・久保は、翌年9月に朝鮮半島で病没した。不幸はこれに止まらなかった。

 文禄の役に際して、歳久(義久、義弘の弟)は中風(脳卒中の後遺症)により、出陣がかなわなかった。一説によると、歳久は大変な酒好きで、それが中風の原因であったといわれている。ここで、歳久に不幸が訪れたのである。

■梅北一揆の勃発

 同年6月、島津氏の家臣・梅北国兼(くにかね)が一揆を起こしたのである(梅北一揆)。国兼は朝鮮出兵への不満から(あるいは秀吉に対する不満とも)、突如として肥後佐敷城(熊本県芦北町)を占拠すると、周囲に一揆に応じるよう呼び掛けた。一揆は歳久のみならず、島津氏をも苦境に陥れたのである。

 国兼には歳久の配下の者が多数味方したといわれたので、歳久は秀吉から一揆との関与を疑われた。結局、秀吉から嫌疑を掛けられた歳久は、兄の義久から追討された。攻撃を受けた歳久は切腹しようとしたが、中風のため自害すら叶わなかったという。

 戦いの結果、歳久は配下の原田甚次によって、首を獲られた。その後、27名もの家臣が殉死したと伝わっている。梅北一揆そのものも、わずか3日で鎮圧された。

 梅北一揆の勃発は予想外のことだったが、九州征伐後の島津家は義久・義弘兄弟の不和も相俟って、弱体化したのは明らかである。そうした状況下において、さらに勃発したのが、庄内の乱なのであるが、また機会を改めてとりあげることにしよう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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