【テニス全日本選手権】秋田史帆と日比野菜緒――同じテニスクラブ出身の二人が、決勝戦で重ねた想い
人目を避け、会場の廊下の隅で敗戦の涙にくれる頭を、ポンポンと優しく叩く手があった。
視線を上げると、昔から良く知る顔が、笑みを浮かべてのぞいている。
「ほら、泣かないの! 負けて強くなるんでしょ!」
泣いていたのは、日比野菜緒。
声の主は、秋田史帆。
この時から7年後――二人は全日本選手権の決勝戦で、互いに初のタイトルを懸けて対戦した。
日比野にとって5歳年長の秋田は、少女時代に仰ぎ見た「憧れのお姉さん」である。
日比野が、木曽川ローンテニスクラブに通った12歳の頃から、同じクラブに籍を置く秋田は、日本のトップジュニアだった。コートで揺れる秋田の快挙を祝う横断幕は、日比野の記憶に焼き付いた、強さと栄光の象徴である。
その後、秋田はプロとなり日比野もオーストラリアに留学した頃から、二人の足跡が重なる機会は少なくなる。
それでも日比野が18歳だったあの日、秋田は以前と変わらぬ距離感で、全日本室内選手権の試合で敗れ廊下で泣く日比野の頭を、軽く叩いてエールを送った。
「負けて強くなるんでしょ!」――その後しばらくこの言葉は、敗戦のたびに日比野の胸で響いたという。
数々の価値ある敗戦を重ね、WTAツアーやグランドスラムを主戦場とするまでに「強くなった」日比野は今年、6年ぶりに全日本選手権のコートに立った。
「日本人としてテニスをするなら、誰もが欲しいタイトル。少なくとも私の中では、ツアー優勝と同じくらい価値がある」
全ての選手から標的とされることを覚悟し、その上で決断した出場だった。
その日比野のプレーを秋田は、1回戦から「興奮しながら見ていた」という。
現在世界ランク400位の秋田にとり、トップ100の日比野は今や、「間近で見る機会が無い」という遠い存在。劣勢に追いやられても1本のショットでイーブンに直す日比野の技術に、「凄い、凄い!」と声を上げて感激した。
ロッカールームに充溢していた「日比野さんと対戦したい」という空気を、誰より濃くまとったのも、恐らくは秋田だったろう。ただ「ドローは見ない」という彼女には、その時がいつ訪れるのかは、直前にならないと分からない。
一つ勝ち、2つ勝ち……邂逅の日を求めるように勝利を重ねるうち、彼女は決勝まで駆け上がっていた。
■第1シードの重圧を背負う日比野と、三度目のタイトル挑戦となる秋田。それぞれが目指した初タイトル■
「凄く楽しみで、ワクワクしている」――決勝戦での対戦が決まったとき、日比野と秋田は、同じ言葉を口にした。
ただいざ試合が始まったとき、日比野は自身の動きが固く、ボールも伸びていないことに気づく。
「身体は正直だな……」
そんな苦くこそばゆい思いを抱えながらも、日比野は第1セットを競り勝った。
周囲の目には、実力で勝る日比野が、手堅く掴んだかに見えたセット。だが当人にしてみれば、「理想のテニスじゃなく、何とか拾って拾って取った」ものだった。
そこで第2セットでは、緊張を振り払うためにも、自ら攻めることを志す。だが、ギリギリのバランスで噛み合っていた歯車の回転を無理やり変えたとき、心身の調和が崩れはじめた。
「しぶとさが無くなってしまった」という日比野とは対象的に、「ベースラインから下がらず、ボールをしっかり見て打つ」という原点に立ち返った秋田は、プレーの精度を高めていく。
数字ほどに一方的な展開ではないものの、気づけば秋田が12ゲーム連取。心待ちにした対戦で得た勝利は、秋田に、三度目の正直となる悲願の全日本タイトルをもたらした。
「菜緒ちゃん、今大会に出てくれてありがとう」
優勝スピーチで真っ先に日比野に謝意を述べた秋田は、「結果論ではあるけれど……」と、過去2度の全日本決勝戦を思う。
2回とも負けたのは、菜緒ちゃんと決勝を戦う、この瞬間のためだったのかな……と。
敗者の側に身を置いた日比野も、表彰式では「小さい頃から憧れた史帆ちゃんと、決勝の舞台で戦えて嬉しかった」と声を震わせる。
「負けるんだったら、史帆ちゃんが良かった」と本人に伝えたとき、大粒の涙が頬を伝った。その横顔に、秋田が優しく手で触れる。
「負けて強くなるんでしょ!」――以前は、試合で敗れるたびに胸に響いた言葉が、久々に日比野の心を撫でた。
「やっぱり先輩は、強かったです。次は勝てるように練習してきます」
勝者の感傷と敗者の誓いが、二人の歩んだ時間を撚りながら、センターコートで交錯した。