皇后雅子さま が“スラッガー(強打者)・マサコ”だったボストンの高校時代 米紙回想
皇后になられた雅子さまは、幼少期をニューヨークで、高校、大学時代をボストンでお過ごしになった。
ボストンではどんな高校時代を送られたのか? 5月2日付の米紙ボストン・グローブ(電子版)が、過去の記事から、雅子さまの高校時代を振り返っている。
人気ドラマの劇制作
雅子さまが日本からボストンに移住し、ボストン郊外のベルモントにあるベルモント高校の2年生に編入されたのは1979年のこと。
当時の雅子さまにについて、教師の一人、リリアン・カッツ氏が、雅子さまが模範生だったこと、勉学に熱心で、化学、物理、数学、ドイツ語に秀でたこと、クラスのトップ10%に入る成績で卒業したことを回想、「彼女は素晴らしかった。頭が良く、優しく、思いやりがあった」と1993年の同紙の記事で話している。
同紙に掲載された1981年度の卒業アルバムによると、雅子さまは、課外活動では数学チームとフランス語クラブに所属。思い出としては、ケネディ図書館、MASH(マッシュ)、ドイツ語、東京、ESL、エンサイクロペディアなどが記されている。「2年生の初めにここに来て、素晴らしい時を過ごしました。友だちみんなに感謝。友情は永遠」という感謝の一言も添えられている。
ケネディ図書館とは、ジョン・ F・ケネディ元大統領を紹介する映像や写真、遺品など、ケネディ元大統領に纏わる様々な歴史的資料が展示されているボストンにある博物館のこと。
MASH(マッシュ)は、アメリカで1970年代初め〜1980年代初めにかけて人気のあった医療ドラマで、朝鮮戦争時、韓国の野戦病院に駐留していた医師たちに起きる出来事を描いたブラック・コメディだ。オーストラリア人ジャーナリスト、ベン・ヒルズ氏の著書「プリンセス・マサコ:菊の玉座の囚われ人」によると、雅子さまの高校3年時のクラスはMASH(マッシュ)の劇を行い、雅子さまはその制作に参加していたという。
愛するお兄さん
同紙は、1993年の記事で、雅子さまが、少女時代、熱心なソフトボールのプレイヤーで、少年たちが一緒に試合をしてくれなかったために、女子ソフトボールチームを結成したことにも触れている。
また、当時、雅子さまはちょっとおてんば娘で、先生が雅子さまに「礼儀正しい日本の女の子にしてはあまりにボーイッシュ過ぎる」と言ったことや、雅子さまの妹たちが彼女を「愛するお兄さん(Dear Brother)」と冗談で呼んでいたという微笑ましいエピソードも紹介。
雅子さまが、大きな野球リーグに入るのを夢見ていたほどソフトボールが得意だったことにも言及している。
「彼女(雅子さま)は3塁を守る能力があり、ボールを校庭の外まで打ち飛ばし、(それを見た)少年たちは驚いてポカンと口をあけ、先生たちは眉をひそめた。彼女のヒーローはみな野球選手だった。彼女は大きな野球リーグに入ることを夢見ていた」
しかし、雅子さまはベルモントに引っ越してからは、テニスやスキーをするために、その夢を断念したという。
スラッガー・マサコ
とはいっても、雅子さまはベルモント高校でもソフトボール部に所属、背番号11番で2塁を守っていた。チームメイトたちと一緒に写っている写真もある。上記の卒業アルバムでは、雅子さまは課外活動の中にソフトボールを入れてはいないが、ソフトボールの腕前が素晴らしいことで有名だったという。
同紙によると、前述のヒルズ氏の著書には、以下のように書かれている。
「ベルモント高校時代、学業記録以外で、彼女(雅子さま)に関して唯一公になった報道は、ソフトボールが上手いことから、彼女のことを“スラッガー(長打力のある強打者)・マサコ”と呼んでいる地元紙の記事だ」
中学校時代は女子ソフトボールチームを結成するほどリーダーシップ性があり、高校時代は“スラッガー・マサコ”とボストンの地元紙に書かれたほどの強さを見せた雅子さま。
皇后さまとなられた今こそ、その能力を発揮して、海外メディアから「地位が低い」と見られている皇室の女性たち(詳しくは、世界も見守る新天皇陛下“即位の礼” 「新皇后雅子様のご参列は許されず」米紙が一石を投じるをお読み下さい)が抱えている“不平等”に立ち向かい、女性天皇を認めることに賛成している8割近くの人々を牽引する力になる時が来たのではないか。