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【深掘り「麒麟がくる」】信長はなぜ比叡山を焼き討ちにした? 和睦が破綻した真相

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
比叡山延暦寺の根本中堂。織田信長焼き討ちの後、徳川家光によって再建された。(写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

 NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の第32回「反撃の二百挺(ちょう)」と第33回「比叡山に棲(す)む魔物」は、織田信長による比叡山焼き討ちまでの経緯が描かれた。なぜ、比叡山は織田信長によって焼き討ちにされたのか? 明智光秀の動向も交えつつ、深掘りすることにしよう。

■和睦の交渉 第32回を振り返って

 話を少し巻き戻して、織田信長と浅井・朝倉連合軍の戦い後、両者が和睦を結ぶ時点から検証しよう。

 元亀元年(1570)11月28日、足利義昭と関白・二条晴良が三井寺(滋賀県大津市)で面会し、信長と浅井・朝倉氏の和睦に向けて話し合いの場を持った。条件の交渉は、晴良が中心となって進めた。

 交渉の結果、近江北郡の所領に関しては、浅井長政が3分の1、残り3分の2を信長に配分することでまとまった。しかし、比叡山は信長に根強い不信があったのか、和睦には容易に応じなかった。

 同年12月9日、正親町天皇は比叡山領を安堵するという綸旨を出すと、信長は義昭に対して綸旨に同意する旨の誓紙を提出した。

 やがて、比叡山が和睦を受け入れると、朝倉義景も和睦に同意した。その後、義昭の家臣・三淵藤英の子と信長の2人の子が朝倉方に人質として渡され、朝倉方も織田方に2人の子を人質として送り、和睦は成立したのである。

■長く続かなかった和睦

 信長は浅井・朝倉と和睦を交わしたが、長くは関係が続かなかった。元亀2年(1571)2月、浅井氏の家臣で佐和山城(滋賀県彦根市)を守備していた磯野員昌が、突如として織田方に寝返ったのである。

 佐和山城は美濃と近江の結節点にあり、交通の要衝地だったので、浅井氏にとっては大きな痛手となった。その後、信長は磯野氏の代わりに、家臣の丹羽長秀を佐和山城に送り込んだ。

 同年5月、信長は長島の一向一揆と戦ったが、敗北。その間には、顕如の子・教如と朝倉義景の娘との縁談がまとまり、両者の同盟関係が築かれた。

 同年8月、信長は浅井氏を攻めるため出陣し、さらに金森(滋賀県守山市)まで軍を進めた。金森は、近江の一向一揆の拠点だった。結果、一向一揆は信長に降参し、人質を差し出したのである。

■反信長の比叡山

 比叡山も反信長の姿勢を鮮明にし出した。そもそも比叡山は信長との和睦を渋っていた節があり、実際に和睦の打診に対する回答も滞っていた。

 交渉を担当していた二条晴良は比叡山に憤慨しており、それは信長も同じ気持ちだった。やがて、信長は比叡山が要請に応じることなく、またいちおうは和睦は成立したがために、近江から撤退した無念を晴らそうと考えたのである(『信長公記』)。

 こうして決行されたのが、悪評高い比叡山の焼き討ちである。

■明智光秀も加担した焼き討ち

 比叡山の焼き討ちに際しては、明智光秀も一役買っている。同年9月2日、光秀は和田秀純に書状を送っている(「和田家文書」)。和田氏は、宇佐山城からほど近い雄琴(滋賀県大津市)の土豪だった。

 秀純は近隣の土豪の八木氏とともに光秀に与することを約束し、鉄砲や弾薬の補給を受けて、仰木(同大津市)を攻略することになった。

 信長は志村城(滋賀県東近江市)を攻略し、その後は長光寺(滋賀県近江八幡市)に全軍を結集する計画だったという。光秀は、信長から近江の土豪を調略する役割を与えられていた。

■比叡山の焼き討ちの決行

 信長が比叡山の焼き討ちを実行したのは、同年9月12日のことである。その様子は、『信長公記』に詳しく記されている。

九月十二日、叡山を取詰め、根本中堂、山王二十一社を初め奉り、零仏、零社、僧坊、経巻一宇も残さず、一時に雲霞のごとく焼き払い、灰燼の地と為社哀れなれ、山下の男女老若、右往、左往に廃忘を致し、取物も取敢へず、悉くかちはだしにして八王子山に逃上り、社内ほ逃籠、諸卒四方より鬨声を上げて攻め上る、僧俗、児童、智者、上人一々に首をきり、信長公の御目に懸け、是は山頭において其隠れなき高僧、貴僧、有智の僧と申し、其他美女、小童其員を知れず召捕り(以下略)

 この記述から、極めて残酷な措置が取られたことがわかる。死者の数は、フロイスの書簡には約1500人、『信長公記』には数千人、『言継卿記』には3000~4000人と書かれている。いずれにしても、相当な数の人間が亡くなったのはたしかだ。

 坂本周辺に居住していた僧侶や住民たちは、日吉大社の奥宮の八王子山に立て籠もったが、信長の軍勢によって焼き討ちにされたのだ。

 信長が比叡山に対して行ったことは、いかに理由があるとはいえ、当時の人々からは非難された。山科言継の日記『言継卿記』には、「仏法破滅」「王法いかがあるべきことか」と焼き討ちを非難。仏法とは文字通り仏教であり、王法とは政治、世俗の法、慣行のことを意味する。

■信長は無宗教者でも無神論者でもない

 信長は無宗教者(あるいは無神論者)だから、徹底的に宗教を弾圧したというが、それは誤った理解である。信長は寺社に所領の寄進をするなど、信仰心があった。

 では、なぜ信長は比叡山を焼き討ちにしたのだろうか。

 延暦寺の僧侶らはまったく宗教者としての責を果たしておらず、放蕩三昧だった。延暦寺の僧侶らが荒れ果てた生活を送っていたことは、『多聞院日記』にも延暦寺の僧侶が修学を怠っていた状況が記されている。

 そのうえで、信長に敵対する朝倉氏、浅井氏に与同したというのだ。こうした僧侶らの不行儀と信長に敵対したことが、比叡山焼き討ちの原因だったと考えられる。

 信長が比叡山などに断固たる交戦に臨んだのは、単に彼らが宗教者として本分を守らず、信長に歯向かったからに過ぎないのである。

【この記事は、Yahoo!ニュース個人編集部とオーサーが内容に関して共同で企画し、オーサーが執筆したものです】

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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