独立リーガーのセカンドキャリア。パーソナルトレーナーへ「恐れず前進」
近年、プロアスリートのセカンドキャリアに注目が集まっている。日本でもっとも「稼げる」スポーツである野球でさえ、NPB選手の7割を超えるものが引退後の生活に不安を感じているという。そのNPBのドラフトにかからなかった選手がプレーする場である独立リーグの選手ともなると、現役時代に貯蓄などできるはずがなく、その引退後のキャリアについて、より大きなリスクを抱えることになる。彼らのほとんどはNPBという夢を叶えることなく競技生活を終えることになるのだが、その後の進路は様々だ。
六本木のイケメントレーナー
パーソナルトレーナーになった元独立リーガーがいる。滝口和眞さん、34歳。2009年にサラリーマンからルートインBCリーグの石川ミリオンスターズに入団。その後、関西独立リーグの紀州レンジャーズ、大阪ホークスドリームへと移籍を重ね、独立リーグで計4シーズンを過ごした。引退後は、ジム運営会社にトレーナーとして入社。昨年に一念発起独立した。引退から7年経った今、彼は女房子供を養うため、生まれ育った東京・麻布でパーソナルジムを開業している。
港区の高級住宅街。ここにあるマンションの一室が滝口さんの職場だ。とくに看板も出していないのは、ジム通いをしていることをあまり他人に知られたくないこのあたりの住民の需要を取り込むためだという。ウェイトマシンを取り去れば普通のワンルームマンションという室内は実に殺風景だ。彼がこの仕事をする上で取得した様々なライセンスの認定状も、自身の「プロ野球選手」としての現役時代を思わせる写真やユニフォームなどは全く飾っていない。
「シンプルな方がいいでしょう。お客さんも落ち着くでしょうし。そういうのはあんまり見せるものではないと思いますし。でも、僕が野球をしていたことは、お客さんはだいたい知っています。会話の中でどうしても出てきますから。独立リーグというのがなかなか伝わりにくいですけど(笑)。欽ちゃん球団なんかと皆さんごっちゃにされてますね。今は元ロッテの西岡さん(栃木ゴールデンブレーブス)なんかの名前を出すとわかってもらいやすいですね」
と滝口さんは笑う。
リーマンショックの中、エリートコースを離れ歩んだ「イバラの道」
育ちの良さがにじみ出ているイメージの通り、名門・学習院大学の硬式野球部のエースとして活躍した後は、サラリーマンになった。滝口さんが大学を卒業したのは2008年春。あのリーマンショックの年だ。一流大学を出たからと言って就職の内定が保障されていなかったあの時代にあって滝口さんは大手生命保険会社に職を得た。
しかし、そんなサラリーマンとしての毎日を「嫌で嫌で仕方なかった」と滝口さんは振り返る。
「やっぱり僕にはサラリーマンはちょっと向いていないと思いましたね」
実のところ、入社の時点で辞めることを考えていたのだと言う。
「僕が大学に進学した時に日本にも独立リーグができたんです。高校も大学も大して強いところでやってなかったんで、ちゃんと指導を受けたことがなかったんですよね。だから大学時代も心のどこかにより高いレベルでプレーしてみたいというのがあって…。でも大学卒業時にチャレンジする勇気がなかったというのもあるんですけれども、独立リーグに挑戦するに当たって、親に迷惑を掛けたくなかったんで、挑戦のための資金を貯めるために就職しました。でも、それも言い訳だったかもしれないですね。トライアウトを受ける自信がなかったのかもしれません。結局、1年ブランクが空いちゃった分、多分プレーの感覚とかというのが狂ってしまいました」
サラリーマン時代の1年間は、たまに草野球をプレーしたり、自分でランニングやシャドーピッチングをするくらいだったが、貴重な左腕ということもあって、受験したルートインBCリーグのトライアウトには見事合格した。
しかし、現実は厳しかった。独立リーグからプロ野球(NPB)という大志を抱いて石川ミリオンスターズに入団したものの、ドラフトまであと一歩だったという強豪校出身の野球エリートも多数いる独立リーグでは、大学3部リーグのエースの投球はまったく通じなかった。8試合に登板して勝ち星なしの2敗、防御率14.85。これが滝口さんがBCリーグで残した数字だった。数字そのものより、投球イニング数を上回る四球数は、気持ちが逃げていたことを如実に示していた。当然、シーズン後にはクビが待っていたが、それでも滝口さんは、あきらめがつかず、他の独立リーグでその後3シーズンを送って自らに引導を渡した。
「ワンランク上の場所でやってみて分かりました。自分は選手として向いている性格じゃないって」
現役時代の反省を生かすべく選んだトレーナーという道
そんな滝口さんが、セカンドキャリアとして選んだのがトレーナーだった。
「独立リーグに進んだ時点で、もちろんその時はNPBを目指してはいたんですが、ダメだったらトレーナーとかになりたいなというのがありました。それで、独立リーグ時代に実際にジムでバイトしたことがあって、面白い仕事だなと思ったんです。トレーナーという立場でお客さんと話すとかというのも、たぶん僕にしかできない。今こうして自分でやってみて、僕のことを気に入ってくれるお客さんが長く続けてくれたりしていると思うんで。ある意味、早めに時代の波に乗れたというか、そういう決断をして正解だったんじゃないかなとは思っています」
個別指導を売りにした大手ジムで5年修行を積み、昨年独立。経営もなんとか軌道に乗り、充実した毎日を送っている。
せっかくの野球経験を生かして、野球の指導もしたくはないのかと問うたが、当面は経営者として支店を持つことが目標だという。
「でも、将来的には、学生とかに野球を念頭に置いたトレーニングを教えてみたいというのはありますね。独立リーグで野球をプレーしていましたが、筋トレとかをしっかりせずにやった結果、成績を残せなかったというのがあるんで。まずは体を作ることが大切だよとかというのを伝えたいですね。本当は自分も教わってはいたんですよね。トレーナーみたいな人が来てくれて、話をしてくれていたんですけれども。やっぱり、実感できていなかったんで」
セカンドキャリアへの「道標」だった独立リーグ
引退後、生まれ育った東京に帰り、ジム運営会社に入社。トレーナとしての経験を積んだ。その間結婚し、子どもも生まれた。そして昨年、独立。自分の思うようにやれる分、責任もすべて自分にかえってくる。気が付けば30代半ば。サラリーマンの道を選んだ大学時代の同僚は、もう会社では主力となっている。
「友達を見てると、そのまま会社にとどまっていたら、こういう感じになっているのかなとは思いますけれども。今の時代、ホワイトカラーのサラリーマンも、業務がなくなってくるとか言われていますし、銀行に行った友達とかも転職し始めていますしね。今、大学生で、会社に身をうずめるつもりで入るも減ってきているじゃないですか。あの時の自分も、多分そういう感覚だったんじゃないですかね」
あれだけしがみついた野球とは今ではすっかり距離を置いている。プロ野球を観に行くこともなければ、プレーすることもほとんどない。
「ごくたまに、人が足りないからって、草野球に誘われたら行きますけど。そうそう、この間、大学のOB戦があって、意外と投げられましたよ。硬球で130キロ出ましたから(笑)。ちゃんと肩作ったら、もうちょっと投げられるんじゃないかと思いましたけれども。やっぱり仕事のほうが忙しいですから」
現在の滝口さんの息抜きは、登山だという。これならチームスポーツと違って、時間が空けばふらっと車を飛ばして行くことができる。
他人からは遠回りに見える独立リーグへの「寄り道」かもしれないが、滝口さんとって独立リーグは、天職に巡り合うための「道標」だったのかもしれない。
(注記のない写真は筆者撮影)