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プーチンは侵略者だとしても、日本人はウクライナのプロパガンダを丸呑みにしてもいいのか?

辻田真佐憲評論家・近現代史研究者
(写真:ロイター/アフロ)

ロシア軍のウクライナ侵攻により、プロパガンダが飛び交っている。

プロパガンダとは、「政治的な意図にもとづき、相手の思考や行動に(しばしば相手の意向を尊重せずして)影響を与えようとする組織的な宣伝活動」のことだ。

このような定義を聞くまでもなく、ツイッターなどのSNSを開けば、刺激的なことばや映像とともに、その手の情報をいくらでも見ることができる。「相手がさきに撃ってきた。自分たちは防衛したにすぎない」「いや、これは向こうの謀略だ」、「相手はこんなにも民間人を殺している」「いや、それこそ向こうのやり口だ」――と。

■いかに同情すべき被害者といっても……

最初に筆者の立場を明確にしておくと、今回のロシア軍の行動は明確な侵略行為であり、いかにウクライナ側に挑発など不手際があったとしても、とうてい容認されるべきものではない。

まっさきに批判されるべきなのは、侵略を主導したプーチンである。

とはいえ、プロパガンダについて気をつけるべきなのは、ロシアではなくウクライナだ。

なぜなら、少なくとも日本語圏では、ロシアはほとんど信頼を失っており、そのプロパガンダに騙される人間はほとんどいないからだ。そのいっぽうで、ウクライナは被害者であり、同情されており、その一挙手一投足に多くのひとが影響される可能性が高い。

日中戦争のときの日本と中国を思い出すとわかりやすいかもしれない。武力に秀でるが、国際情報戦に弱い日本。反対に、武力に劣るが、国際情報戦に強い中国。最終的に後者が国際世論を味方につけて戦勝国となった。

被害者なのだからそんな批判をしなくても……、というだろうか。

しかし、いかに同情すべき相手だからといって、その主張や要求を丸呑みしなければならないわけではない。被害者がこれを利用して、なにか別の主張もすることもありうる。

たとえば、なにかのセクハラ事件が起きたとする。被害者はとうぜん同情されるべきだ。しかし、その同情を利用して、男性や会社はすべて悪などと叫ぶ運動をはじめたとすれば、これは「やりすぎ」ということになるだろう。

まして今回の場合は、ひ弱な一個人ではなく、大きな国家の、戦時下の情報発信なのである。なにがしかの政治的な意図があるわけで、それなりに距離をとってみるべきなのは当然のことだ。

今後、時間がたてば、どれぐらい「大本営発表」が行われていたかは明らかになるだろう。

あらためて繰り返すまでもないが、この態度はウクライナ人に同情し、同国を支援すべきという立場と両立する。侵略行為は明白だからだ。とはいえ、刺激的な情報に踊らされる必要はない。したがってこれは、いわゆる「どっちもどっち論」ではない。

■プロパガンダの鉄則とは

もとより、戦局は時々刻々変化するので、ここでは個々の事例に触れるのではなく、プロパガンダ全般に対処する「構え」について指摘しておきたい。

古今東西、プロパガンダの鉄則は、「敵味方をはっきりさせ、中間を許さず、できるだけ単純なメッセージを、感情的に、大衆に向けてしつこく発信し続けよ」である。

日本も、ドイツも、アメリカも、イギリスも、ソ連も、北朝鮮も、ラジオ、映画、漫画、レコードなどの各種メディアを使ってこれを実践してきたわけだが、それ以上に、これほどSNS社会と相性のいいものもないだろう。

政府寄りのプロパガンダだけではない。「このままでは戦争になる」「いま立ち上がらないと」という煽りや、「参加しない人間は政権側」「沈黙は加担と同じ」などのレッテル貼りなどは、左派のデモへの動員にも共通する部分だ。

この点で、ウクライナ大使館の行動には注目に値する。

3月4日、コルスンスキー駐日大使がツイッターで、ウクライナへの支援を示すため、「東京タワーに青と黄色で点灯するように依頼しました。拒否されました」と発信したのだ(現在は削除)。

要請するのはいい。祖国の危難に、なにかやらねばと思う気持ちもわかる。だが、「拒否された」とさらすのはいただけない。「なぜやらないんだ」と批判を呼び込む、犬笛になるかもしれないからだ。

それぞれの個人や組織には事情がある。支援の仕方もそれぞれの自由である。

これについてはいまのところ、ウクライナ側の行動を疑問視する声も多く、日本人は冷静なようだ。だが、プーチンが今後どのような行動をとるかわからない。戦術核の使用もあるかもしれない。そうなれば、このような冷静な態度もむずかしくなってしまう。すでに、ロシア料理店へのいやがらせ行為も起きている

■健全な中間を大切にすべき

だからこそ、いまのうちにはっきりと述べておきたい。日本は、今回の戦争で第三国だ。日本人は、戦時下の国々のように、「味方か、さもなくば敵か!」という感情的なプロパガンダに巻き込まれる必要はない。

われわれはむしろ、さきの鉄則の反対を行くべきだろう。すなわち、人類の失敗に学びながら、たとえ時間がかかろうとも、冷静に、理性的に、あるべき健全な中間を大切していくこと、これである。

具体的には、ロシアを理解不能な敵とみなさず、ウクライナを完全な正義と思い込まず、それぞれ距離をとって研究し分析し、場合によっては仲裁役を買って出ることなどが考えられる。第三国としての責任もここにあろう。

そしてこのようなプロパガンダへの耐性は、現代進行形のニュースをみるときだけではなく、今後北東アジアで有事が起こったとき、不確かな情報に踊らされないことにもつながるはずだ。

残念ながら、しばらく刺激的なニュースが続くだろうが、思わず過激なコメントしたりすることなどは少なくとも慎んでいきたい。

評論家・近現代史研究者

1984年、大阪府生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。政治と文化芸術の関係を主なテーマに、著述、調査、評論、レビュー、インタビューなどを幅広く手がけている。著書に『「戦前」の正体』(講談社現代新書)、『古関裕而の昭和史』(文春新書)、『大本営発表』『日本の軍歌』(幻冬舎新書)、『空気の検閲』(光文社新書)などがある。

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