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伝説の6分43秒――ビートルズ来日がテレビ史にもたらしたもの

てれびのスキマライター。テレビっ子
記者会見を行うビートルズ(写真:Shutterstock/アフロ)

現在放送中の朝ドラ『ひよっこ』では第13週から第14週にかけて、ビートルズの来日に沸く日本が描かれている。

ビートルズが来日したのは、約50年前の1966年6月29日。翌30日から7月2日の3日間にかけて全5公演が日本武道館で行われた。

この公演の独占中継権を得たのは日本テレビ。7月1日の夜9時から放送され、56.5%という高視聴率を記録した。

中でも鮮烈な印象を残したのが、そのオープニング映像である。

「ウォーーン!」

とパトカーのけたたましく長いサイレンが鳴り響く中、ビートルズを乗せたキャデラックがS字カーブを曲がってくる。

サイレンが交差する。

キャデラックはパトカーに囲まれながら台風一過の早朝に高速道路を疾走していく。

カメラがズームし、キャデラックの中にいるメンバーの人影を捉える。

その瞬間。

「♪ミスターーーーームーンライト」

というジョン・レノンの伸びやかなヴォーカルが響き渡るのだ。

6分43秒。

当時は決して代表作とは言えなかった「ミスター・ムーンライト」(実際、日本公演では歌われていない)を使用したこのオープニング映像は視聴者を釘付けにした。

この映像を演出したのは佐藤孝吉。

のちに『アメリカ横断ウルトラクイズ』や『はじめてのおつかい』などを生み出す日本テレビの名物ディレクターである。

それは台風がもたらした

このオープニングで使われた映像は偶然の産物だった。

佐藤はビートルズ来日を取り仕切ったプロモーターの永島達司から秘密裏にある情報を得ていた。

「ビートルズは羽田空港には降りない。米軍の横田基地だ」と。

それはマスコミの中では自分たちだけしか知らない情報だった。他のメディアは当然、羽田空港に詰めかけていた。

“独占”でビートルズが日本の地に初めて降り立つ姿を撮影できる!

佐藤の胸は高鳴った。

しかし、事態は思わぬ方向に動いてしまう。

台風4号が日本列島を直撃したのだ。中型だが、強烈な風をもたらした。

この気象条件で、横田基地に着陸するのは危険だった。なぜなら、滑走路が短すぎたのだ。

機長は予定を変更し、羽田空港に着陸することとなった。

それをデスクから直前に聞いて知った佐藤は大慌てで羽田空港に向かった。息も絶え絶えでたどり着いた時には、当然既に各局のスタッフがごった返し、少しでもいいポジションにカメラを構えていた。

出し抜いたはずが、もっとも条件の悪い状況に陥ってしまったのだ。

深夜3時40分。ビートルズを乗せた412便が、羽田空港に降り立った。

彼らはハッピ姿で姿を見せた。有名なシーンだ。

そんな中、佐藤は永島に詰め寄った。

「デスクで聞かなかったら、僕らはまだ自衛隊にいましたよ!カメラマンだけでいい、ビートルズの前を行く車に乗せてください! 僕らにはその権利がある!」

高速を走るビートルズの車を撮る。この状況を逆転するためにはそれしか方法がなかった。佐藤は必死にまくしたてるように訴えた。執念だった。

永島は、観念したようにニヤリと笑って言った。

「キャデラックは、でかい。うしろに一席空いている

すかさずカメラマンはビートルズを先導する車に乗り込んだ。

その結果、どこの局も撮れなかった映像を残したのだ。

3分間の独占インタビュー

さらにこのオープニング映像には短いながらも、公式の記者会見とは別にビートルズへの“独占”インタビューの模様が収められている。

「日本のファンはどうですか?」という質問には「最高だよ、手紙をたくさん送ってくれる」と答え、エリザベス女王陛下に会ってみての印象を訊かれると、「イカしてたよ、彼女は」と若者らしい言葉を返す。インタビュー中も、彼らはカメラの前でおどけてみせたり落ち着かないヤンチャ坊主という印象だ。

一週間に何回、髪を洗いますか?」「よく切りますか?」などという質問が時代を感じさせる。

このインタビューも、もともと予定されたものではなかった。

日本テレビは“独占取材権”を持ってはいたが、独占でインタビューができるという契約ではなかった。ビートルズが泊まっている東京ヒルトンホテルに入れるだけ。しかし、佐藤は諦めるわけにはいかなかった。やはり執念だ。

「日本テレビです、ビートルズのインタビューをお願いします」

マネージャーの一人を見つけ、掛け合っても相手にしてくれなかった。必死に食い下がっても「場所がない」の一点張り。

カッとなった佐藤は荒い口調で言い放った。

「場所がないなら、トイレで撮ろうじゃねえか!

そんなメチャクチャな要求にそれまで佐藤を相手にもしていなかったマネージャーが「なにぃ?」とやり返してきた。

そのやりとりを偶然聞いていたのがブライアン・エプスタイン。ビートルズを“育てた”と言われる人物だ。

It's a charming idea(それは面白いかもね)」

と微笑んだ。

彼はメンバーたちと話をつけ、結局、「エレベーター前で3分だけ」という条件でインタビューを許可したのだ。

そうして、偶然と執念が生んだ伝説のオープニングが誕生した。

ビートルズ来日がもたらしたもの

ビートルズが日本にもたらしたものは様々だ。音楽、文化、ファッション、思想……様々なものを一緒に連れてきた。だが、それだけではない。

この来日に際し、『ひよっこ』でも描かれている通り、いろいろな人がいろいろなかかわり方をして、大なり小なり人生に影響を受けた。

佐藤孝吉ももちろんその一人だ。

そのオープニング映像はドラマ演出家だった佐藤が初めて演出したドキュメントだった。執念と偶然が大きな化学反応を起こすことを実感した。

佐藤がこれによりドキュメントを撮る快感を知ったことは日本のテレビ史にとって重要なターニングポイントとなる。

それから約11年後、佐藤は、伝説のクイズ番組であり、ドキュメントバラエティの嚆矢ともいえる『アメリカ横断ウルトラクイズ』を生み出した。それはその後のクイズ番組に多大な影響を与えたのはもちろん、『電波少年』、『イッテQ』へと連なる日テレ式ドキュメントバラエティの源流となったのだ。

(参考)

佐藤孝吉:著『僕がテレビ屋サトーです―名物ディレクター奮戦記 』(文春文庫PLUS)

ライター。テレビっ子

現在『水道橋博士のメルマ旬報』『日刊サイゾー』『週刊SPA!』『日刊ゲンダイ』などにテレビに関するコラムを連載中。著書に戸部田誠名義で『タモリ学 タモリにとって「タモリ」とは何か?』(イースト・プレス)、『有吉弘行のツイッターのフォロワーはなぜ300万人もいるのか 絶望を笑いに変える芸人たちの生き方』、『コントに捧げた内村光良の怒り 続・絶望を笑いに変える芸人たちの生き方』(コア新書)、『1989年のテレビっ子』(双葉社)、『笑福亭鶴瓶論』(新潮社)など。共著で『大人のSMAP論』がある。

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