センバツ甲子園優勝投手・村上頌樹(智辯学園→東洋大)再びエースとして見せる「攻めの投球」
2016年の春、村上頌樹(しょうき)は智辯学園のエースとして高校球児なら誰もが憧れる甲子園で歓喜の輪の中心となった。あれから3年の時が経ち、名門のユニフォームを纏い再びエースとして日本一を目指す戦いに打って出る。
変わらぬ信条
「攻める」という言葉がインタビュー中、幾度も村上の口から出てきた。
兵庫県の淡路島で生まれ、小学3年の頃から投手となって以降、常に大切にしてきた信条だ。中学時代はアイランドホークス(現淡路ボーイズ)でヤングリーグの全国大会で春夏それぞれ準優勝。連盟の垣根を超えて中学硬式野球日本一を争うジャイアンツカップにも出場した。
当時指導していた倉本昌康さん(現淡路ボーイズ顧問)は「すごく努力家。当時のチーム練習日は週3日でしたが、自主練習を含め毎日練習していたはずです」と、しみじみと振り返る。チームの3期生で上級生部員も少なかったため、1年時から試合に出場していたが、相手の上級生にも恐れることなく向かっていく姿勢が強く印象に残っているという。
自ら志望して進んだ智辯学園では、1年夏からベンチ入り。「すごく優しかった」と話す岡本和真(巨人)や吉田高彰(セガサミー)らとともに甲子園に出場し、点差の開いた明徳義塾戦ではマウンドにも立った。
1年秋の新チームからエースになったが、その時立ちはだかったのが船曳海(法政大)や貞光広登(国学院大)ら好打者を複数擁した天理だ。長年のライバルに秋夏ともに敗れて春夏ともに甲子園出場を果たせなかった。この時の「逃げの投球をしてしまった」という苦い経験が、村上をさらに攻めの投球へと導いていく。
2年秋の近畿大会は準々決勝で敗れ、滑り込みのセンバツ選出となったが「日本一になる」と指導陣も部員も口に出して冬から一丸となって取り組んでいたという。
そして、迎えたセンバツ。初戦となった開幕試合の福井工大福井戦で10安打を浴びながらも、粘りの投球で完封勝利を挙げると勢いに乗った。「一番理想の投球ができた」と振り返る準々決勝の滋賀学園戦の2安打1四球完封など5試合すべてで完投し、自責点がわずかに2点、防御率0.38。決勝の高松商戦で延長11回にセンターオーバーのサヨナラ打を放ち自らの手で栄冠をたぐり寄せた。
その後は「最低でも夏の甲子園に行かなければ」というプレッシャーとの戦いだったが、見事に奈良大会を勝ち抜き甲子園へ。2回戦で敗れたが「自分の投球はできました」と後悔なく終えることができた。
無駄にしない下積み
進路はセンバツでのブレイク前に既に声をかけてくれていた東洋大へ進学。1年春からリーグ戦登板を果たしたが、そこで大学野球のレベルの高さを痛感する。
「バットが金属から木に変わったのでナメていた部分がありました」と、ある程度の自信を持って臨んだが、「戦国」とも称される激戦をくぐり抜けてきた東都大学野球の各打者の手強さは想像以上だった。
「少しでも甘いコースに行けば打たれるし、厳しいコースに投げても食らいつかれました」と、初勝利こそ挙げたものの春秋合わせて3勝止まり。右ひじ痛で途中離脱も経験した。
2年時はドラフト上位で指名された3右腕(DeNA・上茶谷大河、ソフトバンク・甲斐野央、中日・梅津晃大)らの台頭で登板機会は限られ、6試合19回3分の1のみの登板に終わった。一方でこの経験も無駄にせず「梅津さんの取り組む姿勢、上茶谷さんのコースにしっかり決めるところ、甲斐野さんのブルペンの過ごし方など良いところをたくさん学びました」と前向きに振り返る。
そして3投手が卒業した今年は、エースとしての期待を背負いマウンドに登る。現役時代に捕手だった杉本泰彦監督、バッテリーを組む佐藤都志也(4年)が口を揃えて「リードしがいのある投手」と評するように、精度の高い制球力と変化球、キレのある最速148キロのストレートは捕手の組み立て次第で、さらに何倍もの効果を生み出す。そのためにも投手として強気の姿勢を持っていたい。
「だんだんと逃げの投球になっていたので、今年は攻めの投球をして負けない投手になりたいです」と話す。また大学に入り「常に全力で投げるのではなく、上手く打者を打ち取れるようになりました」と成長を実感している。
「あの優勝があったから相手より自信を持てている部分はあると思います」と話す3年前の貴重な財産とともに名門を牽引し、大学球界の頂点を目指す。
文・写真=高木遊
取材協力=東洋大学硬式野球部