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88年の時を超えて“ジャズの錨”を揚げた横濱・氷川丸の船出

富澤えいち音楽ライター/ジャズ評論家

2018年9月30日の日曜日。台風24号(チャーミー)の接近で、首都圏は朝から厳戒態勢に入ろうとしていた。横浜も然り。

この日、山下埠頭(神奈川・横浜)の先に係留されている氷川丸で、ジャズのイヴェントが予定されていた。

横濱 JAZZ PROMENADE25周年記念氷川丸船上特別ライヴのチラシ(筆者撮影)
横濱 JAZZ PROMENADE25周年記念氷川丸船上特別ライヴのチラシ(筆者撮影)

横濱 JAZZ PROMENADEの25周年を記念する、氷川丸船上特別ライヴだ。

しかし、午前中にライヴ開催の中止が伝えられた。

ライヴの取材を申し込んでいたボクは、暴風雨に備えて家に籠もり、資料でもゆっくり読んでいようかと思っていたのだけれど、「ライヴをやるから取材をしないか」という連絡が来たのだ。

「いやいや、首都圏の公共交通機関が午後8時をメドに計画運休をすると言っているのに、ライヴをやっちゃうんですか?」といぶかっていると、インターネット中継のためのステージを、本来の公演企画とは別にやるというものだった。

そういう話を聞いて家に籠もっているわけには行かない。

支度をして、山下公園の先にある氷川丸に行ってみると、すでに一般入場は打ち切られ、デッキに続く門は閉じられている。

スタッフに先導されて船内へ入ると、リハーサルが始まっていて、天井の低い通路にも音が漏れてきていた。

♪ 横濱 JAZZ PROMENADE25周年記念氷川丸船上特別ライヴ

もともとこの日は、15時からと18時からの昼夜2公演が、オープンデッキの特設ステージを舞台に繰り広げられる予定だった。

しかし、台風による暴風雨が予想されるのでは、吹きさらしの船上でライヴを強行するわけにもいかない。

そのため、昼夜2公演のステージは中止となって、前売りされていたチケットは払い戻されることになっていた。

一方で、このライヴをインターネット中継しようという計画があった。

そのための原資をクラウドファンディングで募っていたのだけれど、ファンドは成立し、18時からの夜公演を中継することが決定していたのだ。

ところが、公演は昼夜とも中止が決定。

さて、中止となったライヴの、中継のほうをどうするかとなったときに、せっかく準備したのだから“中継のためのライヴ”をやったっていいじゃないか、となったらしいのだ。

う〜ん、ファンドの契約に関する齟齬はともかく、「やると言ったんだからやろうじゃないの」という考え方は、ジャズらしいと言えばジャズらしい(笑)。

♪ 氷川丸と横濱 JAZZ PROMENADEの浅からぬ因縁

このライヴを主催した横濱 JAZZ PROMENADE実行委員会が、氷川丸でのライヴ開催に固執したのには、それ相応の理由があったようだ。

1993年にスタートした横濱 JAZZ PROMENADEでは、第1回から10回まで、会場のひとつにこの氷川丸が使われていたという歴史がある。言い換えれば、横濱 JAZZ PROMENADEの誕生から、人間に例えれば中学生になるぐらいまでのあいだ、成長を見守ってくれたのが、この船上だった。

2018年の横濱 JAZZ PROMENADEは26回目となり(10月6日と7日の開催)、つまり25周年を記念する締め括りのイヴェントとしてこの氷川丸船上特別ライヴが立ち上げられたということなのだろう。

象徴的な場所である氷川丸で記念ライヴをやりたいという想いは、その立ち上げから関わった人たちにとって“悲願”とも呼ぶべきものだったことが察せられる。

実はこの氷川丸、2016年に国の重要文化財(歴史資料)に指定されている。かつてのように簡単に「ジャズやりたいから貸して!」と言えない場所になってしまったというのも、“悲願”を膨らませる要因になっていたようだ。

重文でのライヴ開催をなんとかかたちに残したかったけれど、予定していた公演は中止になってしまった。しかし、インターネット中継でもなんでもいいから、なんとかできないのか……。

そんな逡巡があったことは、想像に難くない。

♪ 氷川丸とジャズの浅からぬ因縁

嵐の前の氷川丸(筆者撮影)
嵐の前の氷川丸(筆者撮影)

そんなインターネット中継強行の裏事情は推し量るべくもないのだけれど、ひとまず置いて、実は氷川丸とジャズにはいろいろと“日本のジャズ発祥”に関係するようなエピソードがありそうなことが、この記事を書こうとして調べているうちに明らかになった。

氷川丸は1930年に竣工した貨客船で、日本と北米のシアトルを結ぶ航路を担うために就航した。といってもこれは平時の話で、当時の日本海軍は戦闘機運搬に改造できる構造での発注をしていたという。どうりでデッキがライヴ会場となるほど広くなっていたわけだ。

1941年に戦局悪化でシアトル航路が閉鎖されるまで、氷川丸は上等な船旅を楽しめる交通手段として人気を博した。

1930年代のシアトルは、すでに“アメリカ合衆国の太平洋岸北西部最大の都市”と呼ばれるほど、東洋貿易の中継地として発展していた。

音楽的には、ジミ・ヘンドリックスの生地であったり、1990年代のグランジ・ロック発祥の地だったりと、ロック系で語られることも多いが、それも古くから音楽が盛んであった証拠。

19世紀末には営業を始めていたというコロンビア・シティー・シアターは、もともとヴォードヴィルのための小屋で、1940年代にはシアトルを拠点とするジャズ・ブームの中心を担ったという。

つまり、横浜とシアトルを物理的に結んでいた氷川丸は、ジャズという音楽&文化を日本に運ぶ役割も果たしていたと考えられるのではないだろうか。

♪ 氷川丸船上特別“インターネット中継”ライヴ

氷川丸船上特別インターネット中継ライヴのようす。荒天のため船内デッキに場所を移しての実施。非公開だったので、手前の観客は手空きのスタッフです。(筆者撮影)
氷川丸船上特別インターネット中継ライヴのようす。荒天のため船内デッキに場所を移しての実施。非公開だったので、手前の観客は手空きのスタッフです。(筆者撮影)

インターネット中継は、時間を午後1時30分から、場所を船内デッキに移して敢行された。

出演は、当初予定されていた“横濱 JAZZ オールスターズ”のまま。

ピアノ・トリオにギターが入るクァルテットで土台を造る。そこへホーンが、あるときはキメをそろえたりハモったり、ソロに転じれば入れ替わりで“聴かせどころ”を浮かび上がらせていく。

生中継という時間の制約もあり、1曲が短くて物足りなさを感じたのも正直なところ。しかし、横濱 JAZZ PROMENADE 25周年記念を飾るティーザー広告としてならこれ以上ない役割を果たしていたとも言える。ティーザー広告って、“じらし効果”を狙ったものだからね。

出演者の記念撮影。前列右が今田勝、左がプログラム・ディレクターの柴田浩一、後列右から守新治、細野よしひこ、向井滋春、キャロル山崎、稲垣護、渡辺典保、中村誠一、中村恵介。(筆者撮影)
出演者の記念撮影。前列右が今田勝、左がプログラム・ディレクターの柴田浩一、後列右から守新治、細野よしひこ、向井滋春、キャロル山崎、稲垣護、渡辺典保、中村誠一、中村恵介。(筆者撮影)

ステージはほぼ1時間の枠内で予定どおり終了。YouTube生中継のシステムの関係でディレイが発生していたため、ディスプレイ鑑賞をしていた人が“プロならではの生放送の収まり感”を共有できたのかは、残念ながら不明。

でも、こうして氷川丸と横濱 JAZZ PROMENADEと横浜発のジャズについて考えるきっかけをつくってくれたという点では、十分にその意義があったんじゃないかと思うのです。

オールスターズによる盛りだくさんのプログラム(筆者撮影)
オールスターズによる盛りだくさんのプログラム(筆者撮影)

さて、週末の10月6日と7日は、26回目を迎える横濱 JAZZ PROMENADEの開催日。

氷川丸からインターネットを経由して放たれたジャズという熱量が、どんなふうにヨコハマの街へ広がっていったのかを、ボクも確かめてこようかな。

音楽ライター/ジャズ評論家

東京生まれ。学生時代に専門誌「ジャズライフ」などでライター活動を開始、ミュージシャンのインタビューやライヴ取材に明け暮れる。専門誌以外にもファッション誌や一般情報誌のジャズ企画で構成や執筆を担当するなど、トレンドとしてのジャズの紹介や分析にも数多く関わる。2004年『ジャズを読む事典』(NHK出版生活人新書)、2012年『頑張らないジャズの聴き方』(ヤマハミュージックメディア)、を上梓。2012年からYahoo!ニュース個人のオーサーとして記事を提供中。2022年文庫版『ジャズの聴き方を見つける本』(ヤマハミュージックHD)。

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