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わきまえず向き合うべき「公共」――失言批判を超えて

志田陽子武蔵野美術大学教授(憲法、芸術関連法)、日本ペンクラブ会員。
この間の報道やSNS発言はいわゆる著名人バッシングなのか(写真:つのだよしお/アフロ)

わきまえず向き合おう

 2月3日の森元JOC会長の不適切発言とその後の会長人事への関心は、当日の発言直後から各紙で大きく報じられた。筆者は東京新聞の「新聞を読んで」コーナーを月に1回担当している。2月28日掲載のこのコーナーでは、この問題について「わきまえず向き合おう」というタイトルで1000文字の原稿を寄せた。本稿はその原稿の視点をもとにして書いているが、東京新聞の記事や社説に沿ったコンパクトな時評としては、そちらのコラムを参照してほしい。

新聞を読んで・わきまえず向き合おう(東京新聞web 2021年2月28日(有料記事))

 この件での報道の視点は多数ある。森氏の発言内容そのものや、これに対する識者の批評を扱ったもの、主催組織JOC、IOCの反応を扱ったもの、JOCから政府関係者・議員の反応などにまたがる政局観察の視点に立ったもの、オリンピック関係者・スポーツ関係者からのスポーツ界の健全化を求める声を扱ったもの、スポンサー企業・経済界からの厳しい見方を扱ったもの、後任人事やそのプロセスの問題を取り上げたもの、後任会長に決まった橋本氏の人となりや言動を扱ったもの、そして社会全体の構造的問題を論じたものに大別できるだろう。各紙がそれぞれの観点から、社説や論説を多数掲載した。

 一方、こうしたメディアの姿勢が、著名人への過剰なあるいは不毛な失言叩きだという声もネット上で散見された。その一例が次の記事だろう。

森氏の“女性蔑視”発言問題 禍根を残した不毛なバッシング(オトナンサー 2/27(土))

 たしかに、年齢をあげつらうタイプの批判は高齢者差別につながり不毛だという指摘は当たっている。森発言報道も橋本セクハラ問題報道も、個別に見れば、芸能人の不倫や失言をあげつらって閲覧数を取るのと同じ動機で書かれたものもあるだろう。またSNS上の個々の発言を見ていけば、うっぷん晴らしにすぎないものもあるかもしれない。しかし、そうしたものがあるにしても、ことの本質を考えたときには、こうした不純物が混ざり込んでいることを併せ呑んで言論の自由を擁護すべき理由がある。

遠くに感じる自分事と、近くに感じる他人事

 芸能人の不適切な言動を取り上げる報道やSNS上の炎上は、他人の「私事」を取沙汰しているにすぎない。私たちは、公共の関心事については、それがなぜ自分事になってくるのかを把握するのにある程度の思考力や想像力がいるため、そのステップをスルーして「遠いこと」に感じやすい。一方、他人の私事については「それなら私もわかる」「それなら私にも一家言ある」という意味で、自分事と錯覚しやすい。「それなら私にも一言言える」という関心の持ち方は、ある意味「わきまえて」しまっている結果かもしれない。しかしそれは身近に感じる話題ではあっても、他人の私事なので、限度を超えてあげつらえば、プライバシー侵害にも個人攻撃にも名誉毀損にもなりうる。誹謗中傷の多くはこうした文脈で起きている。

 「公共の関心事」は、一見遠くに見えても、めぐりめぐって自分事なのだから、わきまえずに向き合う資格がすべての人にある。

 オリンピック・パラリンピックは公共の関心事であり、森氏が役職上おこなった発言は、公人としての発言である。ちなみに、名誉毀損について定めた刑法230の2を見ると、「公共の利害」にかかわる事柄については一定の条件のもとに名誉毀損を成立させないとする規定になっている。公共の関心事になるべき事柄については、「表現の自由」――情報共有や批判の自由――を手厚く認めようという考え方が採られているのである。森発言に関する報道も、当人の社会的信頼を低める情報や批判を含んではいるが、これは「表現の自由」を優先させるべき事柄である。

 この発言によって問われているのは、最高度の公共性をもつ文化行事が、それにふさわしい運営体制で行われているのかという問題と、平等社会や民主主義という課題に日本がどう向き合うのかという問題である。このことはこれまでの投稿でも整理・指摘してきた。

森会長発言に象徴される日本の問題と、IOCの「終了」回答の意味

「会長」の「失言辞任」で終わりにしてはならないこと

 今回は、これは著名人バッシング現象のひとつではないかという見方に触発されて、筆者自身のこうした投稿も含め、この件への一連の社会的関心を《表現の自由と公共性》という観点から考えてみることにした。

公共とは、私物化してはならないということ

 今回の森発言は、オリンピックを今後どうしていくのか――開催の可否を含めて――という関心にとどまらず、日本で平等と民主主義と公共性が理解されているのか、されていないとすればそこを質して、正していかなければならない、という、すぐれて公共性の高い関心事である。

 平等という理念は、差別の克服を課題としている。民主主義や公共という理念は、社会が共有するべきものが私物化されることを防ぐことを課題としている。だからこそ、今回の件でも後任人選などさまざまな場面で事業の私物化が疑われるときには、そこを問いたださなくてはならない。

 かつて、この東京オリンピックのエンブレムのデザインが「模倣ではないか」と問題視されたこともあった。そのデザインが著作権法や商標法などに照らして違法なものとは言えないにしても、デザイナーの人選やそのデザインが採用されるまでのプロセスについて、事業の公共性にふさわしい透明性のあるものにすべきだとの声が上がり、審査方法について軌道修正が図られたはずである。そこでの教訓は、共有されてこなかったのだろうか。

 もうひとつ、筆者がオリンピックの精神面ないし価値観における私物化を問題視したことがある。2016年、くだんの森氏が、リオ五輪の選手団壮行会で、「国歌を歌えないような選手は日本の代表ではない」と述べて檄を飛ばした一幕についてである。

(耕論)スポーツと国歌 宮本恒靖さん、江本孟紀さん、志田陽子さん(朝日新聞デジタル2016年月23日)

(耕論)スポーツと国歌(朝日新聞デジタル2016年月23日、冒頭公開部分)
(耕論)スポーツと国歌(朝日新聞デジタル2016年月23日、冒頭公開部分)

 有料記事なので記事本文のコピペは避け、筆者の発言の趣旨を抽出すると、次のようになる。

 五輪憲章は第6条で「オリンピック競技大会は、個人種目または団体種目での選手間の競争であり、国家間の競争ではない」と明記し、競技者個人を参加主体としている。歴史を振り返れば、為政者が国民感情を操作・統制するために、芸術とスポーツが利用された場面は多々あった。第2次世界大戦でのナチスドイツや日本の政策はもっとも顕著な例である。五輪憲章も、思想良心の自由や個人の幸福追求権を保障した日本国憲法も、こうした反省を共有している。

 森氏の壮行会での発言は、こうした歴史の流れに対して無知である。

 例えば実業団チームを持つ企業の社主が「わが社の商品を知らないようでは、うちの選手ではない」と言うのは許されるだろう。しかし公人が公共の行事について発言するさいには、こうした意識は通用しない。公的立場にある人は、自らの影響力を自覚し、公共の行事の参加者や社会一般に対して自己の選好や信条を強制する発言は慎むべきである。

 筆者の発言の概要はこうしたものだった。ここで筆者が言いたかったのは、オリンピックでの国歌斉唱を廃止してほしい、といったことではない。当時、筆者の発言をそのように誤読曲解したネット批評もあり迷惑したが、筆者が言おうとしたのはそのようなことではない。一人一人を見れば、自分の競技に精いっぱいで歌詞を朗々と歌うところまでは行き着かない選手もいるかもしれないし、何かの心情ないし信条から歌いたくない選手もいるかもしれない。そうした事柄を無視して一律に歌うことを強制する叱咤激励発言は、オリンピック精神に照らしても日本国憲法の精神に照らしても慎んでほしいと発言したのである。特定の公人の個人的価値観や信条を公共行事の参加者全員に強制することは、公共行事を精神面で私物化することになるからである。

公共行事のシンボル的意義

 オリンピック・パラリンピックのような公的祭典は、一般社会になんらかのシンボル的な影響を与える。その影響がプラスのものであってこそ、「公」が行う意義がある。

 ここで差別的な価値観・人間観が公然と容認されてしまえば、それを見た女性たちは「結局この国に暮らす限り、どう頑張ってもこういう扱いを受けるのか」と無力感を感じるかもしれない。また一部の男性たちは、意識を変えるという面倒をスルーする免罪符を得てしまうだろうし、別の一部の男性たちは、人口の半分を占める女性たちが責任ある仕事に就けないために、自分が過酷な責任とワークライフバランスに耐え続けなくてはならないかもしれない。

 これは、一人一人が自分の生き方や考え方を変えることで克服できる《私事》ではなく、社会全体で取り組まなくてはならないという意味で、《公共の関心事》である。こうした課題への気づきや取り組みを後押しするのが「公」に期待される役割である。それに逆行する影響を「公」がことさらに与えてしまうようでは、公共の行事として価値がない。

 こうした発言を法的責任に問う制度は日本にはない。だからこそ、必要があるときには、社会が声を上げなければならない。「表現の自由」が民主主義の要だと言われるのも、「公共の関心事」についてとくにこの自由が手厚く保障されるのも、そのためである。その声を挙げるきっかけを、森氏が作ってくれた。くだんの発言が、日本社会全体を覆う問題を可視化させてくれたことの意義は大きい。

 「公」が社会に向けて発した価値観の操作の問題としては、2020年10月に起きた日本学術会議任命問題が記憶に新しい。2021年2月8日には、菅首相が森氏の進退への言及を避けた一幕があった。これについては、日本学術会議の人選については人事介入をしながらこれでは一貫しないとの指摘が多くの識者から上がった。正当な指摘である。文化・芸術・学術・スポーツの全般に国が支援を行い、これが国の文化的成熟度を示すバロメータになってきた現代、この領域全般に通底する原則論が必要となっている。その中で、まずはこうした場当たり的な実情を浮かびあがらせることは、今後の原理原則の構築と共有のために必要な作業である。

 こうしたことを含めた多くの公共の問題は、民主主義の中で人々が議論を通じて舵取りや軌道修正をしていくべき問題である。しかし単純な数だけの民主主義では、不利な立場にいる人々が発言の機会を得られないまま、不利な立場に固定される流れに陥りやすい。だから成熟した民主主義国では、「パリテ」や「クォータ制」など、マイノリティの議席と発言機会を確保する制度も採用されてきた。この取り組みと比較したとき、日本の遅れは際立っている(じつは憲法53条は、不利な立場の人々の声を議会に反映させるためにも活用できる規定なのだが、それが空文化させられつつあることも、軌道修正を要する日本の課題である。この問題は別稿で論じた)。

 このように見てくると、女性の発言を困ったものであるかのように軽蔑する発言が公人から出てくるという現状は、国際社会に対して恥ずべきことだということがわかると思う。それは国威発揚や国旗損壊罪新設のような虚栄のレベルでの「名誉か恥か」とは次元が異なる事柄である。ある国がそこに生きる人々をどう扱っているかということが、その国の品格を決める最も重要な要素なのだが、今回の問題はその次元において、つまり憲法前文にいう「名誉」のレベルにおいて、「名誉か恥か」なのである。

 起きた個別の問題から、真に取り組むべき構造的問題を洗い出し、息の長い関心へとつなげていくためには、これらの問題が私たちにとってなぜ自分事なのかという理路を考え続ける必要がある。その関心からは、会長人事が一段落したことでこの問題を終わりにしてはならない。

 「表現の自由」は、砂金があるかもしれない川のようなもので、まずは玉石混交状態のままで川ごと「自由」を保障することに意味がある。不毛な記事や不毛な観点がある、という指摘は、川の中から砂金をより分ける濾過作業の一つとして、傾聴すべきものである。

おわりに ――当事者としてのささやかな経験

 ところで、筆者は日ごろ、同じ憲法研究者の中でも女性であるということで、「女性ならではの視点で」「身近なくらしの話を」「法学の専門用語を避けて、平易な言葉で」という依頼を受けることが多い。それは暗に「安全保障と平和にかかわる問題や、統治にかかわる問題(憲法学では「大きな憲法論」と言われる問題)は他の人にお願いをしているので、そこのところの役割配分をわきまえてほしい」という意味であることが少なくない。誌面の企画者や編集者にそうしたキャスティングをする「表現の自由」があることは、筆者もわきまえている。

 昨年の10月、東京新聞の「新聞を読んで」のコーナーで安保問題を取り上げようと思ったとき、そうした習慣から、執筆前に「このテーマで書いてよいか」とお伺いを立てた。書いた後で骨折り損にならないように、先にわきまえておこうと思ったのだった。編集担当者から来た返信は、「テーマは自由に選んでください。そのような縛りをかけたら、うちの女性記者たちに叱られてしまいます」というものだった。その言葉に、同紙の女性記者さんたちの名前がいくつも浮かび、そうした人々の活躍に、筆者もこんな形で恩恵を受けているのだと気づいた。「仲間から叱られるようなことをしてはマズイ」という気分(文化規範)が自然にそこにあるということは、法による強制よりもはるかに大切で有効な規範なのである。それを作り上げることは、一朝一夕ではできないことだからこそ、あらためてここを「はじめの一歩」としたい。

武蔵野美術大学教授(憲法、芸術関連法)、日本ペンクラブ会員。

東京生まれ。専門は憲法。博士(法学・論文・早稲田大学)。2000年より武蔵野美術大学で 表現者のための法学および憲法を担当。「表現の自由」を中心とした法ルール、 文化芸術に関連する法律分野、人格権、文化的衝突が民主過程や人権保障に影響を及ぼす「文化戦争」問題を研究対象にしている。著書に『文化戦争と憲法理論』(博士号取得論文・2006年)、『映画で学ぶ憲法』(編著・2014年)、『表現者のための憲法入門』(2015年)、『合格水準 教職のための憲法』(共著・2017年)、『「表現の自由」の明日へ』(2018年)。

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