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「会長」の「失言辞任」で終わりにしてはならないこと

志田陽子武蔵野美術大学教授(憲法、芸術関連法)、日本ペンクラブ会員。
オリンピック・パラリンピックは社会全体の価値観に影響する「公共」文化事業だ。(写真:つのだよしお/アフロ)

森会長、辞任の意向表明

「女性がたくさんいる会議は時間がかかる」などと発言した森氏が、2月11日、東京オリンピック・パラリンピック大会組織委員会の会長を辞任する意向を示した。12日に正式表明すると伝えられている。

森喜朗会長が辞意 12日表明へ 女性蔑視発言で引責(毎日新聞2月11日)

 森氏の発言がどういう意味で問題発言だったのかについては、すでに多くの指摘があり、筆者も以下の投稿で問題点を整理した。

森会長発言に象徴される日本の問題と、IOCの「終了」回答の意味

 問題の一つは、多くの人が指摘している女性蔑視の側面である。仮に会議運営の支障になるような長時間発言をして「困る」委員がいたとしても、それを「女性」一般の特徴としてステレオタイプ化することは、女性蔑視発言となる。これは今日の社会の倫理観にも、オリンピックの精神にも反する。

 もう一つは、議を尽くそうとする姿勢を抑え込む圧迫発言の側面である。世の中には、会議を時間通りスムーズに運ぶことよりも「議を尽くすこと」のほうを重視すべき局面が多々ある。それを「困る」と表現することは、民主的な社会に逆行する。今、東京オリンピック・パラリンピックをどうするかについては、開催の可否そのものも含めて議論を尽くさなければならないはずである。これではオリンピックを開催したとしても、民意を誠実に反映し、議論を尽くした上での《国としての決定》とは、とても言えない。これは名ばかり民主主義国としての日本の自己矛盾を、世界に向けて露呈した一幕だったと言える。これを軌道修正しなくてはならない。

 3番目は、上のような事柄を総合して見たとき、問題の発言がオリンピックの精神に反すると同時に、日本が直面する課題への逆行にもなっていることである。

理念を軽視することはできない

 前回の投稿の最後、筆者は、「森会長は発言について謝罪した。これでIOCはこの問題は終了と考えている」とのIOC回答を取り上げて、「「終了した」というのは、IOCはこれ以上この件に関与はしない、ということであって、日本国内での社会的議論を終了せよ、ということを意味するものではない」と述べた。日本国内でこの問題をどうするかは、日本国内の判断にゆだねられているということである。むしろこのIOC回答が、この「終了」回答の前置きとして、「ジェンダーの平等はIOCの根本原則」であること、「将来を見据えた五輪ムーブメントの長期計画、アジェンダ2020でも重要な柱」であることを確認・念押ししていることのほうを重視したいとも述べた。

 その後、IOCが態度を一変させて、森氏の発言をIOCとして容認できないとする見解に変えたことは、一つには、IOCのこの回答が森氏擁護の意味に受け取られかねないことと、そう受け取られることにIOCが危機感を感じるほどに世界の論調が高まりを見せたからだろう。

 オリンピックは、いまや巨大な利害の絡む《政治・経済の領分》となっている。しかしそうであるにせよ、オリンピックが本来の理念をかなぐり捨てた利潤追求事業になってしまっては、合意やスポンサーシップの足場を失い、立ち行かない。この《理念の共有》という足場の重要性を、日本の大会組織トップ関係者は見誤っていたと思われる。

 これを看過できないことと見て決断したのが、ほかならぬ財界だった。進退問題に直接言及しなかったにしても、スポンサー企業の発言の影響は大きいだろう。

【コメント全文】トヨタ社長、森氏発言は「遺憾」 東京五輪の最高位スポンサー 進退には言及せず(東京新聞2月10日)

 報道では、二階幹事長が、ボランティアの辞退について「おやめになりたいというのだったら、新たなボランディアを募集する」と述べたと伝えられているが、これも社会にとって看過できない問題となった。

森会長に続き二階幹事長もボランティア発言で炎上 なぜムラ社会は自浄作用が働かないのか(AERA dot. 2月10日)

 自主的な参加精神に支えられるべきオリンピックの理念からすれば、この行事のすそ野を支えるボランティアの辞退をこのように軽視してはならず、身を挺しての諫言として重くとらえるべきだった。が、残念ながら日本では、こうしたことよりも財界の発言のほうが決め手となった、というのが現実のようである。そこに日本の精神的な貧しさがあるということは指摘しておくべきだが、一方で、財界がここで理念を重視したことには大きな意味がある。たとえば欧州では、企業価値を測る尺度として、「人権デューデリジェンス」を採用し、義務化する国も出てきている。

欧州で進む人権デューデリジェンス義務化 世界はどう追随するか:国連ビジネスと人権フォーラム②

 これが投資価値判断にも影響してくると言われている今日、いわゆるグローバル企業にとっては、こうした基本理念に背を向けることはできなくなっているのである。日本を代表するトップ企業が、特殊日本的な家父長制的価値観に寄り添うよりも、グローバル企業としての《あり方》を選んだ。オリンピックというもののシンボル的な意義を考えたとき、この判断は必要なことだったと思う。

「辞任劇」で終わりにしてはならないこと

 森氏の発言が先に見たような問題を含んでいたことからすると、今回の引責辞任は必要なことだった。これは組織の長の役割という一般論から、普通に言えることだと思う。しかし、この「辞任パフォーマンス」で「みそぎは済んだ」という気分を作り出して終わりにしては、社会からこれだけの声が上がったことの意味が無駄になってしまう。

 これについて、オリンピックそのものを専門領域とする専門家の談話としては、次の記事が参考になる。五輪に男女平等の理念が共有されてきた経緯や、その尽力の過程について語られている。

#五輪をどうする 「森氏がやめて済む問題ではない」 來田享子・中京大教授(毎日新聞2月10日)

 筆者自身は、「表現の自由」と民主主義の関係や、「文化芸術政策と法」といった領域を専門としており、スポーツとオリンピックに関する専門家ではない。しかし、オリンピック・パラリンピックの文化事業としての公共性や、そのシンボル的価値からして、今回の問題を社会全体に影響する問題だと考えており、その視点からこの問題について論じるべきだと考えている。

 オリンピック・パラリンピック大会組織委員会については、会長一名が交代することに意味があるのではなく、この辞任によって「平等」「自主性」の理念が改めて共有されること、そして率直な発言と議論がしやすい方向に「空気」「価値観」が入れ替わることに本質的な意味がある。そしてこのことが、一般社会の「空気」「文化」にも波及する。オリンピック・パラリンピックの公共性とシンボリックな価値は、この「波及効果」にある。

 したがって、今回の件を「オリンピック関係者という、雲の上の特殊な人々」の出来事と見て終わりにしてはならない。「わきまえない女たち」というハッシュタグがSNSで急速に広まったことや、識者・ジャーナリストの発言が瞬時に大量に発せられたことは、この問題が長い間、社会全般に横たわってきた「問題」であったことを物語っている。「自分もそういう扱いを受けてきた」という人々や、「我々はそこを軌道修正することにこれだけ尽力している、そのことを社会にアピールしたいときに、これは困る」という企業がこの短期間に続々と反応した、ということに大きな意味がある。

 ジェンダー問題への考察や是正の呼びかけは、学術や理念の領域ではすでに言い尽くされているが、日本の現実の社会文化の中では、それが真摯に受け止められずに空回りする場面が多かった。今回の件で指摘されている「笑い」は、その空気をよく象徴している。森氏のような発言は今でも社会の随所にみられ、それを鷹揚に許容して上手に受け流すことが「できた人のふるまい」として評価されてきた。とくに女性の実力発揮を阻む「ガラスの天井」は、この空気によって、ふんわりと優しく温存されてきた。多くの人がそのことをわかっていながら、この「空気」を乱す発言はしにくかったのである。すでに十分に気づいていながら、真剣な「気づき」を避けてきた、と言うべきだろうか。

 今回の一件で、日本社会のこの「空気」と「文化」に、ようやく変化の兆しが出てきたと言えるのかもしれない。これを、兆しを垣間見ただけで終わらせてはならない。そうした実社会全体の「気づき」と軌道修正は、今ようやくスタート地点についたところだ、と言うべきだろう。

(「表現の自由」を専門とする筆者がこの件について投稿することについて)

筆者は日ごろ、ジェンダー差別表現への法規制には慎重な姿勢をとっています。それは、言論市場の中で自浄力が発揮されることを期待するという「表現の自由」の基礎理論を重視しているからです。そうした姿勢をとっている者としては、今回のように「法」の問題とはならない差別発言問題が起きたときには、言論市場の一参加者として発言するべきだと考え、論説を投稿しました。

武蔵野美術大学教授(憲法、芸術関連法)、日本ペンクラブ会員。

東京生まれ。専門は憲法。博士(法学・論文・早稲田大学)。2000年より武蔵野美術大学で 表現者のための法学および憲法を担当。「表現の自由」を中心とした法ルール、 文化芸術に関連する法律分野、人格権、文化的衝突が民主過程や人権保障に影響を及ぼす「文化戦争」問題を研究対象にしている。著書に『文化戦争と憲法理論』(博士号取得論文・2006年)、『映画で学ぶ憲法』(編著・2014年)、『表現者のための憲法入門』(2015年)、『合格水準 教職のための憲法』(共著・2017年)、『「表現の自由」の明日へ』(2018年)。

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