行動経済学「ナッジ」は政策を変えるのか?
5月21日、経済産業省(METI)はナッジユニットを設置すると発表した。イギリスやアメリカ等ではすでに先行事例があるナッジの政策応用について、その費用対効果を検証した論文があるので、そのひとつを紹介したい。
ナッジが政策に
「ナッジ(nudge)」は、肘で軽くつついて人を動かすこと。家計や企業といった経済主体の行動を政策目標に沿うように誘導するために、これまでは税や補助金が使われてきた。例えば、太陽光発電を促したい、あるいは住宅の耐震化をすすめたいのであれば、それにそった補助金制度が整備される。しかし、税制優遇や補助金だけではどうやら不十分であることが理解されてきた。なぜなら、補助金などを考慮すれば合理的には正しいはずの行動でも、意思決定に直面する人の多くに行動経済学的なバイアスがあるせいで、正しい行動をうまくとることができないからだ。
これを受け、各国政府のなかで通称ナッジユニットとよばれる政策の企画立案部署が設置された。イギリスでは2010年に内閣にナッジユニットが設立され、アメリカでもオバマ大統領が2015年に行動科学を政策に応用するためのSocial and Behavioral Sciences Teamを設置した。世界銀行のなかにも行動科学の専門家チームeMBeDがある。実際のところ、どの程度の効果があるのか。またナッジを効かすにあたっての注意事項等を以下で整理しよう。
ナッジの費用対効果
Psychological Science 誌に「Should Governments Invest More in Nudging?(政府はナッジにもっと投資すべきか?)」という論文が公刊された。この論文の著者には、『実践 行動経済学(原題:Nudge)』を記したサンスティーン教授とセイラー教授も含まれる。
論文は、4つの分野(退職金積立促進、大学進学支援、省エネ促進、インフルエンザ予防接種促進)において、ナッジ手法による効果と、補助金などの伝統的な政策による効果を比較している。比較対象となる伝統的な政策については、各分野でのトップ3の学術誌に2000年~2015年までに掲載された研究結果の数値が用いられた。
退職金積立促進
まず退職金積立促進におけるナッジは単純で、従業員に就職後1ヶ月以内に積立率を選んでもらうだけだ。このナッジのおかげで、従業員給与の1%相当が新たに退職金積立に振り向けられたという。その費用対効果は低めに見積もっても、コスト$1当たりで、積立金の増加額年間$100に相当した。伝統的な税制優遇や補助金などよりもずっとインパクトは大きい。
大学進学支援
大学進学支援についてもナッジの効果は大きい。低所得世帯の高校生をターゲットに大学進学を促すような補助金や奨学金などはあるが、それが果たす役割(大学進学を増やす効果)はナッジに比べれば限定的だ。ここでのナッジは、連邦学資援助無料申込(FAFSA)の入力支援と援助額の見積サービスだ。このサービスを受けたグループでは、そうでない統制グループと比べて、進学率が8.1%ポイント上昇したという。支援見積サービスの単価が1件当たり$53.02かかったので、政策コスト$1,000当たりになおすと政策効果は1.53人分の大学進学人数に相当する。これは他の伝統的な政策(その多くは金銭的な援助を提供する)に比べても大きい。
省エネ促進
省エネについても、電気料金が割引になるといった金銭的動機ではなく、省エネが環境に良いことだという社会規範に訴えるナッジのほうが効果が大きい。
インフルエンザ予防接種促進
インフルエンザの予防接種は、その接種率が高いと流行を防げることもあり、公共財的性質をおびたものである。したがって、多くの人が働く会社などでは接種率の向上が目標として掲げられる。予防接種に補助金を出したり、啓蒙キャンペーンと無料で接種できるイベントを組み合わせたりというのが伝統的な方法である。それに対してナッジは、従業員に接種日を自発的に選んでもらったり(ナッジA)、あるいは接種日時を自動的に割り当ててしまう(ナッジB)というものである。いずれも接種を強制するものではないことに注意してほしい、あくまでナッジは、人々の自発的な意思決定や行動を支援するものだからだ。接種日を選ぶタイミングによって、接種率が向上するという仕掛けだ。
ナッジはあくまで良いことのために
税制優遇や補助金といった金銭的な動機づけを行う伝統的な政策よりも、ナッジのほうがずっと効果が大きいという結果を紹介した。省エネの事例では社会規範に訴えているが、他のケースでは、意思決定をタイミングよく促したという点に特徴がある。頭でわかっていても体がついていかない、そのような時にナッジのおかげで、”正しく”合理的な行動がとれるのだ。
意思決定のタイミング、社会規範、選択肢の提示方法など、多様な場面で行動経済学の知見が蓄積されており、ナッジ的介入の余地がある。ただし、ナッジは正しい行動をうまくとれない人を支援する目的で運用されるべきだ。そうした目的とはずれたナッジは、人をだましたり、人の行動経済学的バイアスを悪用したりして、その人の厚生を下げてしまう。セイラー教授はそうした悪しきナッジは「Sludge(スラッジ=汚泥)」だといい(セイラー教授「スラッジではない、ナッジを」)、悪用を戒めている。
マーケティングとの違い
行動経済学やナッジについてご存知の方は、「結局は、マーケティングと同じではないか」と思われる方も多いだろう。実は私もそのように感じてはいるのだが、やはり政策現場にナッジがこれだけ活かされているのは、マーケティングとは本質的に異なるものがあるからだ。ナッジの特長のひとつは、理論的背景やモデルが確立していること。行動経済学は、一般書籍では心理学バイアスを研究しているイメージで捉えられているだろう。しかし、実際のところ、伝統的なミクロ経済学に依拠しつつ意思決定の数理モデル構築を行っているのが行動経済学の本当の姿だ。そうした理論的な厳密性が、おそらくはマーケティングでの理論よりは堅いのであろうと推察する。理論体系がしっかりしていれば、その応用の幅が広いという利点がある。
もうひとつの特長は、合理的で正しい行動をとれなくて困っている人を助けるためにナッジが使われている点だ。そもそも行動経済学は、「合理的に正しい行動を私たちがとれないのはなぜか」という疑問を出発点にしている。したがって、ゴールはその「合理的な行動」をとることにある。しかし、マーケティング手法であれば、商品の本当の良さを理解してもらうという目的もあるかもしれないが、やはり商品を買ってもらうことがゴールであろう。この違いが、政策立案に携わる政策担当者たちにアピールするようだ。政府がマーケティング手法を使っていると知られれば、政府が国民をだましていると勘ぐられるのは想像に難くない。
ナッジはあくまでも補助的な役割
ナッジは今後も幅広く政策現場で応用されていくだろう。ただし、ナッジはあくまでも補助的な手段にすぎない。予防接種率を向上させるにしても、予防接種を受ける機会があるからこそナッジが効く。大学進学を促すにしても、奨学金などがあるからこそ、その応募を促すナッジが効くのである。したがって、伝統的な政策に応える、あるいは充実した支援体制に頼るといった「正しい行動」をとる受け皿があってこそのナッジである。くれぐれも、ナッジが財政難を解決する万能薬であるかのような誤解は慎みたい。ナッジを含めた新しい政策ミックスが人々を幸せにすることを期待しようではありませんか。