Yahoo!ニュース

【プレイバック「鎌倉殿の13人」】滅亡して当然。あまりに酷すぎた平家の所業3選

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
平清盛。(提供:アフロ)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、最終回を迎えた。今回は、あまりに酷すぎた平家の所業を3つ選び、詳しく掘り下げてみよう。

 平家一門の平時忠は、「此(平家)一門にあらざらむ人は、皆人非人なるべし」と豪語した(『平家物語』)。「平家にあらずんば人にあらず」ともいうが、平家の一門は栄耀栄華を極め、やりたい放題だった。

 こんな連中が好かれるわけがない。以下、あまりに酷かった平家の所業をsつ紹介しよう。

■禿(かむろ)を使ったスパイ活動

 平清盛が栄耀栄華を極めると、京都市中におかっぱ頭の「禿」という子供を放った(『平家物語』)。「禿」の仕事は情報収集で、平家に対する不満を述べる者を発見すると、ただちに報告した。「禿」は子供だったので、さほど警戒されていなかったのだろう。

 清盛が「禿」を市中に放ったのだから、京都市中の人々には平家への不満があった。清盛は不満の高まり抑えるべく、「禿」から情報を収集し、すぐに対処したのである。

 報告を受けた平家方の武者は不満を述べた者を捕縛し、私財なども押収した。相手は武士なのだから、庶民には抵抗の術はなかった。恐れをなした京都市中の人々は、「禿」を避けるようになった。まさしく恐怖政治である。

 「禿」は旧ソ連のKGB、旧東ドイツのシュタージ、ナチスドイツのゲシュタポみたいなものだ。こんなことをして、平家が歓迎されるはずがないだろう。しかし、「禿」の存在は『平家物語』にしか書かれておらず、ほかの記録では確認することができない。

■平重盛の報復措置

 嘉応2年(1170)7月、藤原基房の従者が平重盛の子・資盛と道中で鉢合わせとなり、その無礼を咎めて暴行を加えた。資盛は特に応戦することなく、引き揚げたようだ。

 ところが、基房は暴行を加えた相手が重盛の子と知り、大いに慌てた。飛ぶ鳥を落とす勢いの平家一門に手を出したら、報復されるに違いないと考えたのだろう。基房はすぐに謝罪したが、重盛は受け入れなかった。

 しばらくして、重盛は基房が参内することを知り、武者を遣わして、資盛に暴行を加えた従者を襲撃した。武士は恥辱を受けたら、報復するのが当たり前だった。この事件をきっかけにして、重盛は権大納言の職を辞すが、周囲は平家の横暴さに恐怖しただろう。

 一説によると、報復を命じたのは清盛であるといわれているが、それは『平家物語』に書かれたことで、現在では誤りとされている。また、重盛は冷静沈着な武将として知られているが、実は武闘派の側面もあったのである。

■西光の顔を踏みつけ、拷問する

 安元3年(1177)、鹿ケ谷(京都市左京区)で後白河法皇の近臣の藤原成親、藤原成経、西光、俊寛らが中心となり、「打倒平氏」の謀議を行った。しかし、謀議は出席していた多田行綱の密告により、あっけなく清盛の耳に入った。行綱は途中で怖くなって、裏切ったのだ。

 ただちに清盛は、首謀者の捕縛を命じ、それぞれに流罪などの刑を申し渡した。俊寛は喜界が島に流され、2度と京都の地を踏むことはなかった。もっとも悲惨だったのが西光である。

 西光は清盛の前に引きずりされ、「平家に逆らった者はこうなるのだ」と顔を踏みつけられた。しかし、西光は怯むことなく、卑しい身分の清盛が太政大臣になったことを嘲笑した。西光の最後のあがきだった。

 すると清盛は怒り狂い、配下の者に拷問するよう命じた。西光は事件に関する自白を強要されたうえ、口を裂かれ、五条西朱雀で首を斬られた。あまりに無残な最期だった。これを見た人は、平家に恐怖を覚えただろう。

■まとめ

 ここに挙げた平家の振る舞いは、『平家物語』などの二次史料に書かれているので、やや大袈裟に書かれているかもしれない。しかし、平家の振る舞いは傲慢そのもので、人々の気持ちが離れていったのは事実と認めてもよい。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

渡邊大門の最近の記事