レフトスタンドへ夢を運んでくれた森田一成選手 その続きは…
戦力外通告の第2弾として、阪神タイガースから森田一成選手(25)の名前が発表されたのは、10月28日。1軍が日本シリーズで戦っている最中で、ファームはフェニックスリーグ終了後の休日でした。それから1週間後、鳴尾浜で会った森田選手は少し顔がほっそりしていたので尋ねると、通告される1週間前くらいから減量に入ったところだったと言います。ドラフト会議も終わって数日、もう第2弾はないのかなと我々も思っていました。でも「びっくり…ではなかったですね。ことしは1軍にも上がっていないし」と、とても穏やかな表情です。
岡山の森田家は親子三代みんながタイガースファン。一成くんも幼少時からタテジマ一筋に応援していました。だからドラフトで指名された時はもう大喜び!入団発表の前日に取材で会った際、そのころ私が阪神ファームの記事を書いていた携帯サイトに「もう加入してますよ」と、まんまる笑顔で言ってくれたことが忘れられません。育成選手になった時、お母さんから頂いたお手紙に「のんびり屋さんなので」と書いてあったんですが、しっかり親孝行もしてくれましたね。
プロ1号はバックスクリーン越え
森田選手といえばホームラン、おそらく甲子園や鳴尾浜でアンケートを取ると9割以上の方がそう回答されると思います。なんといっても初めて1軍に昇格した2011年7月26日、その日の中日戦で5回に代打出場して甲子園のレフトスタンドへ放り込んだプロ1号が強烈でしょう。しかもプロ初打席のホームランは球団史上初の快挙!4年目の若トラが放った1発は、虎の和製大砲誕生を予感されるに十分でした。
その2年前にファームで打ったホームランも、覚えておられる方は多いはず。2009年9月16日の中日戦(鳴尾浜)、6番ファーストで先発出場していた森田選手は2人目の左腕・菊地投手の初球、スライダーをセンターへ。庄田選手との2者連続弾でした。そのプロ1号のことも含め、2009年9月25日のスポーツニッポン紙面『ファーム通信』に私はこんな記事を書いています。
負けたら目前で相手が胴上げという16日の中日戦(鳴尾浜)で、2年目の森田一成選手(20)は値千金の同点アーチを放った。23日の最終戦で優勝を逃したものの、そこまで望みをつないだ1発は、紅白戦でも打っていない正真正銘のプロ初ホームラン。しかもバックスクリーンを越えていく特大弾だった。
育成への降格が決まったのは、高校時代に痛めた右肩が治り、本隊で練習する喜びを感じ始めた昨年秋。落ち込んだ。しかし「1年で支配下に戻る」と心に決めた時から顔つきも一変する。実質プロ1年目といえる今季は肩の痛みもなく、43試合に出場して64打数15安打14打点、打率.234。「数字はまだまだやけど、ここまで来られたのは悔しさと“やらないけん!”っていう思いがあったから。そう考えると逆によかったかも」。代打でプロ初安打した開幕戦も、優勝争いが続く中でのスタメン起用にも感謝のひとことだと言う。
来月6日から始まるフェニックスリーグで「打ちまくるのは絶対条件!それと秋季キャンプでの猛アピール」と誓った。初ホームランのボールは両親に、その感触は両手に残し、期待の長距離砲は実りの秋を迎える。
あのホームランはもちろん記憶にありますよね?と聞いたら、森田選手は「懐かしいなあ。走っていたので見てないけど、あとで聞きました。バックスクリーンの“PL”のとこを越えたらしいです」。審判4人の名前が表示される、一番左のあたりですね。あの時は、森田選手によくアドバイスをくれたブラゼル選手がちょうどファームにいて、ベンチでバシバシ叩かれたと言っていましたっけ。私もスタンドで見ていたのに、打球を見失ってしまったのが悔やまれます。
この7年間の思い出を聞いたら、できごとではなく名前が出てきました。「平田監督しかないでしょう。平田監督がいなかったら、僕は1年か2年で終わっていたかもしれない。それが3年目には4番を打たせてもらったんですよ。(葛城)育郎さんや庄田さんや桜井さんとかがいる中で。2年目の最後、初ホームランを打ったあとに4番で使ってもらったのが最初でした」。入団した時と、残念ながら阪神の最後となる2年間もまた平田監督だったんですね。
続けて「平田監督は怖い。今でも怖い」と繰り返します。そんなに怖い?「怒鳴られたりはせんけど…怖いなあ」としみじみ。「でも一番感謝してる。3年でクビになると思っていたのに1軍に行ってホームランも打てて。7年もやれた。優しいけど怖い。怖いし嫌いやけど、大好きで感謝しかない。去年もきっと『森田はもうええやろ』って話は出ていたと思うんですよ。でも4番で使ってくれた。1軍も含めて、やっぱり一番は平田さんかな」
そうやって使ってもらった中で「次で打たんかったらもう出れんという試合もあって、そういう時に限ってホームラン打ったりしてた」と笑う森田選手。だからこそ今季のようにスタメンから外れたり、遠征で残留したりというのは辛かったでしょう?「それは仕方がないです。若い子を使わないと。僕もそうやって使ってもらったので」。なるほど、自身のことを思い起していたんですね。
大和さん、隼太との出会い
選手では誰が印象に残っている?「大和さん。あの人見知り感とぶっきらぼうさが最初は怖くて怖くて」。入団直後は同期の高濱選手と2人、先輩方が来る前に寮の食堂で食事を済ませたくらいだったそうですよ。それが「僕がズケズケ言ったら、気づけば心を開いてくれて(笑)、それに自主トレも一緒にさせてもらった。1軍に行った時はいつも食事をおごってもらっていました。だから僕も原口や中谷、穴田とか連れてメシ行くんです」
「(伊藤)隼太と出会えたのは大きい。数少ない同級生で、ほんとに野球が好きで練習もものすごくやってて。あんなヤツ会ったことなかったですよ。高卒の僕と慶応のエリートが、愚痴を言い合ったり励まし合ったり。遠征でも毎日毎日メシ行ってました。みんなに冷やかされるくらい一緒にいた(笑)。隼太はウエートトレーニングもすごいやってたでしょう?やるべきというよりは“自分がやらないと気が済まんから”やってるんですよ。その時点で負けていましたね」
「片岡さんが怖くて…」
そういえば、支配下登録選手に復帰した2010年の秋季キャンプを覚えてる?鼻血を出しながらロングティーやっていたでしょう。「ありましたねえ」と思い出し笑いです。片岡コーチが「カメラさーん、森田が鼻血出してるとこ撮っといてよ~」と言ったので、しっかり新聞に載りました。鼻にトイレットペーパーを詰めたままバットを振る森田選手の姿が。とても和やかなキャンプ風景、と思いきや本人は笑いごとではなかったそうで。
「片岡さん、メッチャ怖かった!あの時も足がつってたんですけど、片岡さんが怖くて言えんかった…」。鼻血だけじゃなくて足もつっていたとは。そりゃもう必死のパッチですね。しかし怖い人が多くて大変。「ほんまに怖かったんですよ、片岡さん。でも金本さんに『篤ちゃん怖いか?篤ちゃんに怒られたら自分が悪いと思え』って言われました。それで、なるほどと。1つ年上の金本さんが言うくらいだから」
なお当時の片岡コーチには「バット持ったら1億円プレーヤーやけどなあ。グラブ持ったらあかんな」という“名言”をいただいたそうです。怒るのは期待していたからに違いありません。まさに目をかけ、手をかけてくださったのでしょう。「怖かったけど、ああいう思いして初ホームランかな」とつぶやく森田選手。その翌年に初の沖縄キャンプ、そして1軍昇格と初ホームランへつながったんですね。
そんな森田選手の姿が、ことしの秋季キャンプにありません。テレビで流れる安芸の映像を見ながら違和感と寂しさを覚えます。可愛がってもらっていた原口選手が、69番のバットを持ってキャンプに行きました。そして森田選手はきょう、静岡草薙球場で12球団合同トライアウトに臨みます。
後悔はない。楽しかった!
トライアウトは「最後と思ってやってきます」と明るい声でした。もし野球をやめることになっても「後悔がないんよ。楽しかったな~って気持ちやから」と話をしている間中ずっと穏やかな表情だったんですが、戦うことをやめたわけではないはず。ホームランバッターというより、ホームランアーティストだった森田一成選手。強烈なインパクトを与えてくれた、あのホームランがもう見られないとは思いたくないですね。
でも、もし違う道を選択したとしても「絶対にでっかくなる。今より大きくなってみせる」と、そこは試合に向かうような力のこもった目で言いました。ユニホームを見られないのは我々にとって寂しいことですが、でも応援します。お母さんもおっしゃっていました。「一成の人生ですから、彼の思うように生きて欲しいです。まだ25歳なので」と。
こんなに長い時間、話をしたのは何年ぶりかなあ。もっと早く連絡すればよかったんだけど、勇気がなくて。みんなから連絡はあった?「メールとか電話、いっぱいもらいましたよ。やめないでとか、すごく嬉しかった」と頷きながら言います。やがて「じゃあ打ってくる」と室内練習場へ向かう森田選手の背中越しに「7年間ありがとうございました」という声が聞こえて、そこまで我慢していたものが一気にこみ上げてきました。こちらこそ、本当にありがとう。でもまた来てね。
「そりゃ来るよ。だって阪神ファンだから!」
7年前を思い出させる、まんまる笑顔がそこにありました。
※森田一成選手は現役を引退。2015年5月24日、語学の勉強と自身の成長のためアメリカ西海岸へ出発しています。その詳細は、こちらで。<もと阪神タイガースの森田一成さんが渡米!次の一歩は学生から>>