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シングルファーザーを生きる~告知から2週間で旅立った妻

吉田大樹労働・子育てジャーナリスト/グリーンパパプロジェクト代表
家族5人で撮った最後の写真。このわずか10日後に旅立って行ってしまう。

【シリーズ】シングルファーザーを生きる

第1回  告知から2週間で旅立った妻。その思いを伝え続けたい。

男イコール仕事とみられがちな環境の中で、世のシングルファーザーたちはどう生き抜いてきたのか。各地で奮闘するシングルファーザーにクローズアップし、その実録を伝えていく。

第1回目の今回は、京都で父子家庭支援を目的とするNPO法人京都いえのこと勉強会を立ち上げた木本努さん(53)。2009年に妻をがんで亡くしたシングルファーザー。3児の子どもたちを育てながら、なぜ父子家庭支援のNPOを立ち上げるに至ったのか。その思いを語ってもらった。

妻との生活~2人から5人へ

吉田  木本さんがご結婚されたのはいつでしたか。

木本  1993年。29歳のときです。

吉田  妻・富美子さんとの最初の出会いはいつだったんですか。

木本  同じ高校の同級生だったんです。そのときはそんなに親しくはなかったです、その後たまたま再会したんです。ちなみに、高校のときは違う彼女でしたよ(笑)。

吉田  それで再会されたのいつですか。

木本  僕ね、仕事で足首を骨折したんです。1989年の年末でした。で、年が明けてからギブスを取り外して初めて河原町に出てきたんです。そしたら、たまたま横断歩道で会ったんです。

吉田  骨折しなければ、再会してなかったんですね。

木本  で、そのときにコーヒーを飲みに誘ったんです。

吉田  そこからすぐに交際が始まるんですね。

木本  いやいや、1年間付き合ったあと、一度別れてるんです(笑)。

吉田  そうでしたか。

木本  再会してすぐにプロポーズしたんです。それが1992年1月25日。

吉田  そこまで覚えているんですね。そのときは何かきっかけがあったんですか。

木本  特にそういうわけじゃなかったんですが、彼女に連絡をしたんです。結構な覚悟で再会しましたね。

吉田  別れていたときも気持ちをしたためていたんですか。

木本  別れている間も別の彼女がいましたけど(笑)。やっぱりなんか引っかかるものがあったんですかね。

吉田  ちょっとほかの彼女とは違ったと・・・

木本  そのへんは正直わからんけど(笑)。

吉田  プロポーズはすんなりOKだったんですか。

木本  そうですね。向こうは向こうで僕のことを思い続けてくれたみたいです。でも妻からは直接聞けずじまい。だからパズルのピースが1つ足りないような感じです。ただ、妻が亡くなったあと、彼女の親友から「別れている間もずっと木本さんのことを思っていたよ」と聞きました。

僕はアメリカのMLBが好きで、特にシンシナティレッズのピート・ローズが大好きだったんです。初めて観戦しに行ったのは1989年のシーズン。年休をもらえるとは思っていなかったんだけど、会社に事情を話したら快く快諾してくれました。同僚から「どこ行くねん?」と聞かれ、「野球を観に行く!」と正直に答えていました。ピート・ローズが1989年8月に野球賭博で永久追放される直前にも観に行っていたんですよ。

妻・富美子さんと何度も観に行ったMLBの球場にて。
妻・富美子さんと何度も観に行ったMLBの球場にて。

吉田  人生のいい刺激にもなったんじゃないですか。

木本  実際アメリカに行ってみて、人生の楽しみを見つけたと思って、仕事にもスイッチが入りましたね。1年に1回はアメリカにMLBを観に行ってました。結婚のときも妻と約束して、新婚旅行も野球漬け。12日間のうち9試合も観たんです(笑)。

妻が当時ワコールに勤めていて、パタンナーをしてました。どちらかというとアメリカよりヨーロッパが好きで、一時別れていたときもフランスとかに行っていたみたいです。新婚旅行に帰ってから、「1年に1回、1週間ほど休みを取ってアメリカに行こう、子どもは当面いらないから」と言ってました。特にシアトルが好きでした。

1985年から僕はダスキンの加盟店で働いていたんですが、95年に地元の青年会議所(JC)に入ったことで、人生が大きく変わりました。JCはどちらかというと老舗の2代目とか起業した方ばかりだったので、そこで人とのつながりができました。

それから、段々とJCの活動も増えて、夜も家を空けがちになってしまったんです。妻がさみしい気持ちを感じるようになって、子どもを作ることを決め、97年に長男、2003年に次男が産まれました。

JCは40歳で卒業です。加盟店の社長からは「JCを卒業したら、3年後の2006年に後継者」と言われていました。05年に妻から「女の子がほしい」と言われていて、3人目に挑戦していました。でも、僕は男の子だなと頭の中で思ったんです。06年4月に三代目の代表取締役に就任。その年の10月に出産。産まれたらやはり男の子で、妻に「ありがとう」と言ったら、妻は「男の子だった・・・」と涙をぽろっと流した姿がいまでも印象に強く残っています。「子どもは当分いい」と言っていた妻が3人のお母さんになってくれました。

5人での生活から妻の病へ

吉田  当時、地域活動などはされていたんですか。

木本  少年野球の手伝いだけですね。社長になってからはフレキシブルだったのが幸いでした。野球という共通の話題があったので、家のなかでもみんなでよく話してました。

吉田  富美子さんは子どもを産んで仕事を辞められたんですね。

木本  2人目が産まれる際にワコールを退職しました。1人目のときは産休・育休を取得して復帰したんですが、2人目のときは取得せずに辞めました。

吉田  辞めた理由は。

木本  専業主婦という意識になっちゃったんじゃないですかね。

吉田  辞めるに当たって夫婦で話し合ったんですか。

木本  僕自身も専業主婦の家庭に育っていたので、お母さんが家にいるという環境に当時は違和感を持ちませんでした。お互いに納得していたと思いますよ。

吉田  富美子さんも専業主婦を肯定的にとらえられていたのですね。

木本  妻が専業主婦だったこともあり、学校や地域のことはほとんどわかっていなかったので、妻にまかせっきりでした。子どもが3人いる大変さを当時は理解してなかったですね。結婚する前は彼女、結婚して妻、そして母に。僕もだんだん男の本性が出てきて、「なんで、俺のことかまってくれへんの?」と感情的になることもありました。当然いまはなんで妻がそうなったかはわかりますよね。「それは無理やなぁ」と(笑)。

吉田  仕事のほうは社長になってからどうでしたか。

木本  仕事は順調でしたが、2008年にリーマンショックが起こって、売上に影響を受けました。同じ年に妻の体調が悪くなったんです。

吉田  2008年のいつころですか。

木本  春ごろですね。風邪もひかないような人だったのに急に咳をするようになったんです。

吉田  健康診断はしていなかったのですか。

木本  会社に行っていたときは受診してましたが、辞めてからは受診していなかったと思います。

喘息とかではない咳がゴホンゴホンと続いてました。でも、検査をちゃんとしていないから原因が何かはよくわからないまま時間だけが過ぎてしまいました。

深刻さを感じたのは、翌年の1月10日のことです。家から7、8分のところにある次男が通っている幼稚園まで辛くて自転車がこげないと言ってきたんです。途中にかかる橋が登れない・・・。

次の日から会社の朝礼終わってから自分が次男を送るようにしました。僕は妻に検査入院してほしいと言ったんだけど、僕の会社のこと、子どもの学校のことが気になるから大丈夫と言って、喧嘩しましたよ。「頼むから病院行ってくれよ」と何とか説得して通院。1月末に緊急入院したんです。その3日後に初めて胃カメラを飲んだんです。それまでも何度か検査には入っていたんですが、胃カメラはそのときが初めてでした。

吉田  それまでは何の検査だったんですか。レントゲンとかも撮っていなかったんですか。

木本  実はそれがよくわからないんですよ。漢方薬を処方する病院に行ってました。それで、2月3日の45歳の誕生日に「胃カメラを飲むから夜に病院に来てね」と言われました。行ってみたら、妻の口からがんが告げられたんです。

吉田  直接本人から聞いたんですね。

木本  「詳しい説明は主治医がするから行って」と妻に言われて。主治医からは「胃がんが肺に転移した」と言われて、思わず出た言葉は、「手術はできますか」。すると、主治医からは「できない」と言われて、「あとどれくらい生きることができますか」と聞いたら、「あと数ヶ月」と・・・。

頭が真っ白になるとかパニックになるとかではなく、隠せないと思いました。隠しても見抜かれると思い、病室で妻に正直に言いました。「胃がんが肺に転移して手術できない。余命数ヶ月って言われた」と。妻は解っていたかのように気丈でした。思わず、「俺もがんと戦う」と言って、抱きしめて背中越しに泣いてしまいました。

妻からは「子どもにも親にも友達にも誰にも言わないで」と言われました。入院と同時に妻の実家に子どもたちを預けてたんです。毎日病院に行って帰りに実家に迎えに行っていました。その日も子どもたちを迎えに行く。一番辛かったですね。

転院するために2月5日に検査を受けに行ったんですが、検査が終わったあとに一度家に寄って子どもたちと1週間ぶりの再会ができました。

2009年2月5日、家族5人で撮った最後の写真
2009年2月5日、家族5人で撮った最後の写真

吉田  そのときのお子さんたちの様子はどうでしたか。

木本  一緒にいたのは1時間だけですが、長男は母親の病状が深刻だということがわかっていて、次男も少しはわかっていたと思います。

帰るときに、最後のメッセージとして「お母さん、いま病気と闘っているから、絶対勝って帰ってくるから、お父さんの言うことを聞いてね、お願い」と、1人ずつ抱きしました。それから、わずか10日後に天国に逝ってしまったんです。

吉田  医師が言った以上に悪かったということですよね。

木本  そうですね。実は2月13日に友人が集まり、長男次男も参加し激励会をしてくれたんです。長男はその様子を母親にメールしてました。母親からも返信がありました。しかし、その翌日に悪化して、夕方に危篤状態になってしまったんです。

友人が「長男次男を連れて帰るよ。どうせ15日にたこ焼きパーティする予定だったから!」僕は「何かあれば迷惑掛かるので」と一度は断ったんですけど「何かあれば必ず電話して」と告げて帰られました。

また先輩は、「今晩一緒にいるよ」と言われ控室で一緒に過ごしました。自分には到底出来ないことを先輩や友人はしてくれる。本当にありがたい限りです。

主治医から「今晩が山かもしれない」と言われました。けど、がんばってくれて日を跨いで15日の午前1時30分に亡くなりました。すぐに友人に電話を入れました。「妻が亡くなりました」「えぇ・・・」

子どもたちに母親の死を伝えたのは、その友人なんです。友人には辛い思いをさせてしまったのです。

吉田  告知からたった半月ですよね。心の準備はできましたか。

木本  全然できませんでした。絶対に帰ってくると思っていました。だから、頭の中が真っ白ですよね。

けど、お通夜をして、告別式をして、出棺をして、ちゃんと見送らなければならないし、喪主の挨拶もしなければならないと先輩に言われました。最後のお別れで棺の妻にキスをして大泣きしたんです。けど、あかんとスイッチを入れ替え、喪主の挨拶をしましたね。会社はじめ、妻の実家や友人に支えられ過ごしましたが、しかしなかなか現実を受け止めきれませんでした。シングルファーザーになったという当事者意識もあまり感じてませんでした。子どもたちのことは妻に任せきりだったのでわからないことも多かったんです。

会社の会長は朝礼だけ出てほしい。友人も「子どもたちの面倒は我が家でみる」とも言ってもらいました。

吉田  木本さん1人で子どもたちを育てていく覚悟だったんですか。

木本  僕は妻が亡くなる1年前の2008年に実父を亡くしてるんです。で、母親はいるんですが、地域密着の人なので周囲のおばちゃんたちが面倒をよく看てくれているので、一緒に住むことはあまり考えませんでした。

一方で、妻の実家のほうが近かったので、そちらに子どもたちの夕食をお願いしました。甘えたらいいと言われたのですが、1カ月を経て、「自分のことは自分でまずはやってみよう」と思いました。10ヶ月間お世話になりましたがその後は自分一人での子育てが始まりました。

シングルファーザーとしての日々

吉田  家事や子育ては妻まかせということでしたが、実際にやってみてどんな感じでしたか。

木本  妻がいたときは、なかなか家事を実践する機会はなかったですね。たまに料理を作っても片付けをしないので、妻からは「それだったらしないで!」と言われてました(笑)。洗濯機も使ったことがないから、お風呂の残り湯をどう洗濯機に引き込んでいいのかがわからないんです。

母子手帳の場所もわからないし、銀行の引き落とし通帳もどこにあるのかがわかりませんでした。結局、母子手帳はキッチンの棚にありました。同じところに妻が使うものがいっぱい入っていたので助かりました。

大好きだったお酒も、「いつ車で救急病院に行くかわからない」と思うと容易には飲めません。熱が出ると、37.8℃程度でも連れて行ってしまって、いま考えると大げさでしたね。ママ友5人くらいによく助けてもらっていました。子どもの就学説明会に行った時に「富美子さんには助けてもらったのでなんでも言ってください」という言葉には甘えさせてもらいました。それで救われましたね。

吉田  離れている親戚よりも、近くに住んでいる地域のママ友の存在のほうが大きかったんですね。

木本  お世話になっている人や子どもたちに向けて自分のことを伝えていくために、妻の逝去から2週間後にはプライベートブログを始めてました。非公開で20人くらいの方にパスワードを教えて、身近な方だけに見てもらいました。それを見て、「木本さん、今日は大丈夫?」と言っておかずを持ってきてくれたこともありました。あとで気づいたんですが、ブログが気持ちの表出になっていた。僕のSOSを感じ取ってくれて、みなさん協力してくれました。

料理本とかはほとんど見ないので、取引先の飲食店に行ったときに「どうやって作るの?」って聞いたりして、徐々にできるようになった感じですね。

吉田  やはり経験は大事ですよね。家事への自信はつきましたか。

木本  いや、いまも自信はないです(笑)。家では、男子寮の寮長だと思っています。365日家事をしてみて思ったのは、自分は料理をすること自体は苦痛じゃないけど片付けは嫌い。洗濯を洗って干すのはいいけど、畳むのは嫌いということですね。

吉田  自分もひとり親になってから数年は1週間に一度、1時間くらいかけて乾いた洗濯物を畳んでました。けど、さすがに辛くなっちゃって、あるときから放棄して畳む作業は子どもたちにお願いすることにしたんです。自分がやらなくても大丈夫なところは、なるべく子どもたちにできる範囲でお願いすることにしてます。

木本さんは、お子さんたちにどのように家事にやってもらっていますか。

木本  子どもたちにはよく風呂掃除をしてもらっています。『サザエさん』の最後にやるじゃんけんで負けた人が風呂掃除をする、みたいにして面白おかしくみんなが家事をできるように工夫してましたね。「ガミガミ言うたらあきません!」と先輩の奥さまに言われました。「家はくつろぐ場所、子どもたちのくつろぐ場所がなくなりますよ!」と。そこから改めました(笑)。

父子家庭を支援するNPOを設立

吉田  お仕事のほうはその後どうされたんですか。

木本  実は妻と死別してから会社の会長とは上手く行きませんでした。役職は当番であると教わった。社長としての当番は全う出来ないと思っていました。夜の7時にご飯を作りに帰る社長はダメですよね(笑)。それと三男が小学校に入学してから何か寂しそうでした。子育て絶対に後悔すると思ったんです。社員教育もしておりましたので、行きつくところはいつも親の躾でした。社長の変わりはいるが、父親の変わりはいないと思いました。ブログをもう一つ立ち上げてました。「代表取締役主夫」を(現在は父子手帳代表取締役主夫と改称)。そこに同じ境遇の方や、子育てされている方からの激励、共感のメールを頂き、「自分の経験を発信したい」と思っていました。ある先輩の一言「NPO法人設立すれば!!」と。発信する場をNPO法人に求めました。とにかく子どもと向き合うことを選び2013年10月に27年間お世話になった会社を退職し専業主夫になりました。少しは蓄えがありましたので。

吉田  それでも収入がなければずっと続けていくことはできないですよね。

木本  なので、京都にある友人の飴屋さんにバイトに行ったりもしましたよ。

けど、だんだんお金がなくなってきたので、あるとき妻の遺族年金があるなぁと気づきました。日本年金機構に確認をしに行くと、「お子さんたちは受給権があります」と。条件は300回納付していれば受給できるとのことでしたが、妻が納付したのはなんと299回。あきらめかけていたら、後日「未納分が1回あります」と連絡が来て、大学時代の在学証明書を取れば大丈夫とのことでした。受給権は5年間遡れたので、150万円ほどが入ってきました。不思議なことが起こるものです。妻に「NPOにお金を使って」と言われているのかなと思いました。

吉田  実際にNPO法人を立ち上げたのはいつですか。

木本  立ち上げたのは2014年です。同年8月に申請して、11月に法人登記しました。地元の青年会議所のOBの方々を中心に正会員になってもらい、理事は6人の方にお願いしました。もちろんダスキンの方にも協力をいただきました。

団体名は「NPO法人京都いえのこと勉強会」。僕自身は、死別でシングルファーザーになりましたが、離別した人もいますし、そういうパパたちが苦労したのは料理とか裁縫とか、「家事=いえのこと」だと思ったんです。だから、料理や裁縫の教室を開催したり、また「父子家庭の勉強会」を開催したりして、後に続く方が少しでも楽になればと思いました。

将来的には父子家庭のコミュニティを作って、ひとり親家庭を支援して、その人たちの生活の質が向上できたらと思ってます。なかなか難しい道のりですが。

これ以外にも、いまは死別した家族のグリーフ(悲嘆)ケアについての講演をしたりしてます。

「京都いえのこと勉強会」で開催した料理講座の際の写真
「京都いえのこと勉強会」で開催した料理講座の際の写真

吉田  グリーフケアに関心を持ったのはいつからですか。

木本  2014年3月ころです。PTAのママ友から聞きました。死別のことも発信しようと思っていると伝えたら、「グリーフ(悲嘆)」という言葉を教えてもらったんです。

死別した父子家庭の現状だけではなく、残された家族の悲しみにどう寄り添えるのかを伝えていきたいと思ってます。

吉田  いまはNPOの活動が生活の中心ですか。

木本  いや、実は2015年10月にダスキンに戻ったんです。ダスキンの中でもいまの活動が絶対に役立つことがあると思いました。ダスキンは清掃用品のレンタルをしていますが、家事を助けるということはいまの活動にも通じるところがあります。たまたま先輩に声をかけてもらったんですが、タイミングがよかったんですね。なので、いまは比重も仕事中心になってきました。子どもが大きくなったこともありますよ。講演をさせてもらうことも最近増えてきました。

同じような苦しみを持ってる人がいると思うんです。「みんながんばってるやん」と思ってますよ。けど、死には、病死、事故死、自死もあるんです。誰が死んだかによっても全然違います。また亡くなってからの年数も違う。一概に「一緒にがんばろうね」というのは実は難しいんです。簡単ではないんですよね。

そのために、こういうふうに生きているという1つの道しるべを示してあげることが必要だと思ってます。そういうことを講演で伝えていけたらと。

ダスキンで講演したときの木本さん
ダスキンで講演したときの木本さん

吉田  自分の場合は離別ですが、死別の方の思いはまた気持ちが非常に複雑ですね。けど、いつかは前を向いて生きていかなければいけませんよね。ちょっとした気持ちの変化で日々の暮らしが変わっていくものなのでしょうか。

木本  死別という現実を受け止めてどうするのか。正直、僕は前を向かざるを得なかった。それはダスキン加盟店の社長だったからできたんだと言ってくる人もいましたが、社長じゃないからできないということはないと思っています。

子どもと一緒にいてあげなければならない時期があります。子どもがそのシグナルを出しているときにわかってあげなければなりません。

吉田  子どもの気持ちに常に気づいてあげられるかはなかなか難しいですよね。日々の生活の中では感じられないこともあると思います。そういうときは、非日常に飛び込むことも大事かと。自分はよく旅行を通じて、子どもたちの気持ちに寄り添うことが多いですね。

木本  この8年、本当にドラマだと思ってやってきました。講演のときも妻の話をしますが、やはり何回しゃべっても泣いてしまいますね。

妻が亡くなってから1年は命日が来るのが本当に怖かったんです。妻のことを普段話すだけで泣いてしまってました。いまは前向きに話をすることができます。

吉田  お子さんたちとは普段どんな会話をしてますか。

木本  長男と次男は思春期を迎えて、以前とは接し方も変わってきましたね。反抗期というか、あまのじゃくというか(笑)。こちらもカッと来ることもありますが、世の中に出たら言い訳はできないので言うべきことはちゃんと言うようにしています。子どもたちが甘えている部分もあります。本人たちもわかっていると思いますよ。

僕は子どもたちが早く結婚してもらえたらと願ってます。結婚相手にお義母さんがいたら、少しはそのお義母さんに甘えてもいいじゃないかと。

僕自身はNPO法人の活動は60歳まで。三男の子育てが終わると、子育ての事がリアルに伝えることができない。若い方に譲るか解散します。60歳すぎたら、グリーフケアのカフェでもやりたいと思っているんです。

木本さんの3人の子どもたち。8年の月日が経ち、大きく成長をした
木本さんの3人の子どもたち。8年の月日が経ち、大きく成長をした

吉田  今後、取り組んでみたいことはありますか。

木本  父子手帳を作りたいと思ってます。母子手帳を使う年代向けに作りたいんです。「僕、母子ちゃうやん」っていつも思ってます(笑)。妊娠のような母子特有の問題もありますが、父子特有の問題だってありますから。

いま自分の校区のママ向けに懇談会を開催したりしているんですが、みんなしゃべる場がないんです。2時間くらいみんな平気でしゃべるし、止めなければ3時間でも4時間でも続いてしまいます(笑)。

そういうことを男性にもやっていきたい。男性がもっと語る場があってもいい。父子家庭のパパ向けの懇談会もやりたいですね。父子家庭のパパたちは困ったときに行くところがありません。父子家庭のコミュニティをもっと広げていきたいですね。

吉田  今後の想いで実現したいことはありますか。

木本  個人としては、自分の体験を本と映画にできないかと思ってます。それがある意味、究極の死別父子家庭の発信になると思っています。同じ立場の人にもあっと気づいてもらえる、役に立つものにできないかと思っています。もっと父子にスポットライトを当てていきたいですね。もっと言えば、死別した父子へのケアが足りていません。こんなことで苦労してたんだなということを経験者がもっと語らなければ解決できないと思っているので、この活動をどんどん広げていきたいですね。

木本努さん(写真左)と筆者
木本努さん(写真左)と筆者

(了)

労働・子育てジャーナリスト/グリーンパパプロジェクト代表

1977年7月東京生まれ。03年3月日大院修士課程修了(政治学修士)。労働専門誌の記者、父親支援団体代表を経て、16年3月NPO法人グリーンパパプロジェクトを設立。これまで内閣府「子ども・子育て会議」委員、厚労省「イクメンプロジェクト推進委員会」委員を歴任。現在、こども家庭庁「幼児期までのこどもの育ち部会」委員、「こどもの預かりサービスの在り方に関する専門委員会」委員、東京都「子供・子育て会議」委員などを務める。設立したNPOで放課後児童クラブを運営。3児のシングルファーザー。小中高のPTA会長を経験し、現在鴻巣市PTA連合会前会長(顧問)。著書「パパの働き方が社会を変える!」(労働調査会)。

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