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ある調教師の今は亡き弟が生んだ「若き騎手との縁」による重賞勝利の物語

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
共同通信杯を制したエフフォーリアと鹿戸師(鹿戸師提供写真)

弟と切磋琢磨してジョッキーに

 1962年5月生まれで現在58歳の鹿戸雄一。北海道の日高で、父・忠雄、母・トシ子の下、1つ下の弟・敏昭と共に育てられた。父親は牧場勤務。場所柄、友達にも牧場関係者の子どもが多かった。とくに鹿戸の場合、遠縁に元調教師の鹿戸幸治や後にテンポイントの主戦騎手となる鹿戸明がいた事もあり、自然と騎手への想いが強くなった。

 「仲の良い弟と2人、草競馬で腕を競うなど切磋琢磨してジョッキーを目指しました」

幼少時の鹿戸雄一(左)。右が弟の敏昭で、中央は故・大川慶次郎氏(鹿戸師提供写真)
幼少時の鹿戸雄一(左)。右が弟の敏昭で、中央は故・大川慶次郎氏(鹿戸師提供写真)

 当時はまだ競馬学校のない時代。中学を卒業した鹿戸は上京し、馬事公苑で長期騎手候補生となった。

 「厳しくて辛い毎日でした」

 2年後に卒業し、美浦トレセン内の久保田金造厩舎で騎手候補生となった。ここで嬉しい報せがあった。

 「1年遅れで馬事公苑入りした弟が、厩舎実習で美浦に来る事になりました。彼の厩舎と自分の厩舎がすぐ近くだった事もあり、この後は楽しく過ごせるようになりました」

 当時は騎手候補生が騎手試験を受けてもすぐに合格とならないのが当たり前の時代。鹿戸も4回目の受験でようやく難関を突破。84年に騎手デビューを果たした。しかし、そんな朗報にももろ手を挙げて喜べない理由があった。

 「常に一緒に受験した弟は全て不合格でした。彼は体重制限にも苦しんでいた事から騎手を諦めました」

 それでもトレセンに残ったのがせめてもの救いだった。敏昭は調教助手になったのだ。

 「立場も厩舎も別々になったけど、仲が良いのは変わらず、互いの厩舎を往来しながらよく話をしていました」

 互いにトレセンの仕事も板についてきた90年の4月の事だった。日曜の競馬を終えた鹿戸は翌日の知人の結婚式に出席するため、そのまま都内のホテルに泊まった。すると、そこに1本の電話が入った。

コロナ禍前に撮影した鹿戸
コロナ禍前に撮影した鹿戸

騎手時代の仲間の息子に鞍上を託す

 それから約30年後。鹿戸がそのエピファネイア産駒の牡馬を初めて見たのは2年前の2019年の事だった。

 「ノーザンファームで見ました。第一印象は大きくて立派な馬でした」

 翌年、2歳で入厩したその馬がエフフォーリアだった。

 「素直で良い仔でした。オーナーと相談し、札幌デビューに決めました」

 鞍上には横山武史を指名した。

横山武史騎手
横山武史騎手

 「自厩舎の三浦皇成は新潟で乗る事が決まっていました。北海道ならルメールか武史に頼むケースが多いのですが、ルメールは他の乗り馬がいたので武史にお願いしました」

 そもそも横山武史と鹿戸の関係性を手繰れば横山典弘に辿り着く。武史の父であり大ジョッキーでもあるこの騎手を「ノリちゃん」と呼ぶ鹿戸は言う。

 「騎手時代によく遊んだ仲間が何人かいました。ユタカ(武豊)やミキオ(松永幹夫)、カツハル(田中勝春)らがそうでしたが、そのうちの1人にノリちゃんもいました」

 そんな縁もあり、武史の事も小さい頃から知っていた。

 「調教も乗ってもらったら良い動きをしたので初戦からそれなりにやれると感じました」

 結果、単勝1.4倍の圧倒的1番人気に応え快勝すると2戦目は約2ヶ月半後の百日草特別。東京競馬場の芝2000メートルが舞台のここは少々テンションが高くなるシーンこそ見せたものの、終わってみれば初戦同様先頭でゴール板を駆け抜けた。

 「体質的に少し弱い面があるので間を開けて使いました。まだ子どもっぽい部分も見せたけど、競馬は上手。ゲートが開いてからは安心して見ていられました」

 引き続き手綱を取った横山武史も「『自信を持って乗った』と言っていました」と、指揮官は笑みを見せ、更に続けた。

 「能力があるのは分かったので無理使いはしたくないと考え、次も間を開けて共同通信杯に照準を合わせました」

間隔を取りつつ重賞制覇

 短期放牧から帰厩した時、体重は「20キロ近く増えていた」(鹿戸)。2週前、更に1週前追い切りでも武史に乗ってもらった。すると……。

 「まだ余裕があると感じたのか、『最終追い切りも乗りたい』と言ってきました。それで乗せたところ、終わった後『良い状態になった』と言っていたので、本人なりのさじ加減で仕上げてくれたのでしょう」

 実際、レース当日は「テンションが上がる事もなく良い雰囲気だった」と言う。スタートもいつも通りポンと出ると、好位につけた。

 「そういうセンスがあるので好きなところを選んで走れていました。スローで一瞬、掛かりそうになったけどすぐに落ち着きました。早目に先頭に立った後も瞬発力で放したので、終始余裕を持って見ていられました」

直線、楽々と抜け出したエフフォーリアと横山武史
直線、楽々と抜け出したエフフォーリアと横山武史

 府中の1800という地力の要求される舞台で、先につながる形の上、快勝した事を喜んだ鹿戸はレース後の様子を次のように教えてくれた。

 「武史も当然喜んでいました。それとノリちゃんも嬉しそうにしていましたね」

 このレースで横山典弘が乗ったのは1番人気のステラヴェローチェ。期待に応えられず5着に沈んでいた。当然、悔しい想いで一杯だったであろう事は察しがつく。しかし、競馬は人気に推された馬の鞍上が精一杯の努力をしても、報われない事がままあるスポーツだ。負けた事は残念がりつつも、愛息の勝利を喜ぶのは何も悪い事ではないだろう。

恥ずかしくない仕事を心がける

 さて、鹿戸と横山武史の父の典弘が騎手時代から懇意の仲である事は先述した通りだが、1990年の4月にはこんな事があった。それは鹿戸の人生観をも変える1本の電話から始まった。

 「知人の結婚式のために東京に泊まっていると電話が入り、弟が車に跳ねられたと告げられました」

 入院した敏昭の容態が良くないと聞き、結婚式はキャンセル。すぐに病院に駆けつけた。両親も駆けつけたが、敏昭は昏睡状態。予断を許さない状態だった。

 「両親と僕が見守る中で、呆気なく息を引き取ってしまいました」

 物心がついた時には一緒にいて、幼い頃はポニー競馬で競い合った。その後、共に北海道から上京し、騎手を目指した。最終的には2人とも美浦で汗を流すようになった。人生の多くを一緒に過ごして来た大好きな弟が、僅か27年の人生に幕を下ろしたのだ。

 「泣き崩れた両親が普通の暮らしを取り戻すまで地獄のような日々が続いたけど、僕自身もショックで、それまで感じた事のない喪失感を味わいました」

 そんな鹿戸を励まし、寄り添ってくれたのが、現在調教師の杉浦宏昭を始めとした同期達。そして横山典弘ら先述した騎手仲間達だった。鹿戸は彼等を「恩人」と評する。

2016年、横山典弘のJRA通算2600勝目は鹿戸厩舎のビッシュで決めたものだった
2016年、横山典弘のJRA通算2600勝目は鹿戸厩舎のビッシュで決めたものだった

 そんな恩人の息子と共に手にしたクラシックの出走権。弟が他界して30年が過ぎた。亡くなったのと同じ4月に行われる皐月賞(G1)へ向け、エフフォーリアは調整されていく。鹿戸は言う。

 「仏壇に報告はしました。きっと応援してくれていると思っています」

 近いうちに再び朗報を届けるため「彼が生きていたら笑われないように、恥ずかしくない仕事を心がけていく」と語る鹿戸。そうだ、それが残された者の生き様だ。弟に見守られる鹿戸とエフフォーリアの未来に幸ある事を祈り、注目したい。

共同通信杯勝利直後のエフフォーリアと鹿戸。次走はぶっつけでの皐月賞が濃厚(鹿戸師提供写真)
共同通信杯勝利直後のエフフォーリアと鹿戸。次走はぶっつけでの皐月賞が濃厚(鹿戸師提供写真)

(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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