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健康食品でもある豆腐は、戦国時代に朝鮮半島から伝わったのか。異説を解説する

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
冷奴。(写真:アフロ)

 豆腐は健康食品でもあり、我が国だけではなく、もはや世界的に名の知られた食べ物である。一説によると、豆腐は文禄・慶長の役の際、土佐の長宗我部氏が朝鮮半島から連行した人々によってもたらされたという。この説について、考えてみることにしよう。

 土佐国の朝鮮人町を記録した史料として、『土佐物語』という編纂物がある。『土佐物語』は宝永5年(1708)に成立した軍記物語で、著者は吉田孝世である。

 孝世の父祖は、代々、土佐の戦国大名・長宗我部氏に仕えていた。したがって、同書は長宗我部氏の攻防を描いているが、少しばかり長宗我部氏贔屓のところがある。

 この『土佐物語』の名医である経東の記事として、次のものがある。

 生け捕った朝鮮人八十余人を土佐国に連行し、不便ながらも町屋を立て置いて、唐人町と称した。
 朝鮮人は豆腐というものを調理して売買し、一日の糧として年月を過ごした。
 その中に吉田市左衛門が朝鮮で組み伏し、生け捕りにした朴好仁は、名のある軍将だったので、賓客のように丁寧に饗応していた。
 情けのほどがありがたい。朴好仁の子孫は、いかなる理由か不明であるが、今は秋月氏というそうだ。

 経東は文禄の役において、長宗我部氏によって土佐国に連行された人物である。彼は現在の土佐市内に居を構え、病に効く薬草を採集し、その名医ぶりを発揮した。

 経東は長宗我部氏の厚い信頼も得ていたが、経東に嫉妬心を抱いた医師によって毒を盛られ、悲惨な死を迎えたといわれている(『土佐国人物誌』)。同じく、朴好仁も普州の戦いにおいて、吉田市左衛門政重に捕らえられた人物である(『土佐物語』)。

 この記事には唐人町の具体的な位置が示されていないが、慶長6年(1601)に山内一豊が高知城を築城後、その城下に形成されたといわれている。

 そして、何よりも問題になるのが豆腐である。豆腐は純粋な日本のものと考えられているが、この記事やそのほかの史料類を参照すると、必ずしもそうとはいえないようだ。

 天保5年(1834)に成立した『虚南留別志(うそなるべし)』という料理書には、豆腐の起源について、次のように記している。

 豆腐は豊臣秀吉公の文禄・慶長の役のとき、兵粮奉行の岡部治郎右衛門という者がおり、のちに豆腐の製法を朝鮮の人から学んできた。日本で初めて豆腐を作った。

 この記述を見る限り、現在のわれわれの食卓に並ぶ豆腐は、朝鮮が起源のようである。ちなみに『広文庫』によると、やはり豆腐は文禄・慶長の役の際、生け捕りした朝鮮人によって伝わったと記されている。

 土佐国では、高知城の城下において唐人町が形成され、豆腐職人が集住した。やがて、彼らは日本人と混じることにより、姓名も日本のものに改めたのであろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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