【戦国こぼれ話】徳川家康が学んだ柳生新陰流とは。謎の人物「柳生石舟斎宗厳」から読み解く
三重県伊賀市の新陰流兵法碧燕会が、新陰流伝承の情報収集、調査を開始したとの報道があった。新陰流といえば、兵法家の上泉信綱、柳生石舟斎宗厳が有名であるが、伊賀とも関係が深いという。ここでは、柳生新陰流と柳生石舟斎宗厳(せきしゅうさいむねよし)について考えてみよう。
■柳生石舟斎宗厳とは
柳生石舟斎宗厳が誕生したのは、享禄2年(1529)。父は、大和柳生城(奈良市)主だった家厳(いえよし)である。柳生氏は大和添上郡柳生郷を発祥の地とし、代々発展してきた。
父の跡を継いだ宗厳は、はじめ筒井順慶に仕え、のちに松永久秀の家臣となった。織田信長が大和国に入国した際には、案内をしたことで知られるが、宗厳が有名なのは剣豪としてであろう。
若き宗厳は、富田流の戸田一刀斎、新当流の神取新十郎に剣術を学び、その腕は相当なものであった。宗厳の名声は、すでに五畿内に轟いていたといわれている。
■上泉信綱との出会い
永禄6年(1563)、宗厳は宝蔵院(奈良市)に滞在中だった新陰流の上泉信綱に試合を申し込んだ。当時、信綱は剣豪として知られており、剣聖と讃えられるほどの人物だった。新陰流の祖でもある。
宗厳は試合に挑んだものの、信綱の弟子にすら歯が立たなかったという。まだ未熟なことを悟った宗厳は、信綱のもとで研鑽を積むことになった。信綱に心酔しきっていたのである。
永禄8年(1565)8月、宗厳は「皆伝印可」を授けられ、『新陰流絵目録』4巻などを伝授された。元亀2年(1571)には、同じく信綱から一国一人の印可を受け、宗厳は名実ともに剣豪として知られるようになったのである。
■不幸な出来事
永禄9年(1566)、宗厳は公案の「無刀取り」を師に示したが、柳生谷へ帰る途中で落馬して重体になった。5年後の元亀2年(1571)には嫡男の厳勝(としかつ)が辰市合戦で重傷を負い、剣を振るうことが出来なくなった。宗厳自身と一族に相次いで不幸が訪れたのである。
天正13年(1585)、大和に羽柴(豊臣)秀長が入国すると、太閤検地で隠田(おんでん。年貢の徴収を免れるため密かに耕作した水田)が発覚し所領を没収された。牢人となった宗厳は、公家の近衛前久(さきひさ)を頼ったという。
相次いで不幸に見舞われた宗厳だったが、家康との出会いにより、運命が好転する。
■家康との逸話
最後に宗厳と家康の逸話を取り上げておこう。家康は、奥平久賀から剣術を指南されたほどの腕前だった。文禄3年(1594)5月、家康は柳生宗厳から新陰流兵法の相伝を受けた(「柳生家文書」)。
そのとき宗厳は、京都で徳川家康に招かれ、無刀取り技を披露した。無刀取りとは、先に相手の懐に飛び込んで、勢いを付けて振り下ろされる前に相手の刀を取り押さえる技である。
家康は宗厳と手合わせをしたが、まったく何もできないまま、木刀をあっさりと奪われたという。家康は宗厳の剣の達人ぶりに、すっかり感じ入ったと伝わる。その際、宗厳は剣術指南役を家康から依頼されたが、老齢を理由に辞退し、代わりに5男の宗矩(むねのり)を推薦した。
ただ、この話は『三河物語』とい大久保彦左衛門忠教が子孫に書き残した自伝に描かれたものなので、史実ではなく、エピソードに過ぎないだろう。もっとも家康の場合は、戦場で戦うというよりも、敵からの最初の一撃から身を守るための剣術だったという。
宗厳が亡くなったのは、慶長11年(1606)のことである。