【深読み「鎌倉殿の13人」】源頼朝が朝廷から授けられた征夷大将軍とは、どんな職だったのか
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の22回目では、源頼朝が朝廷から征夷大将軍を授けられる場面があった。そもそも征夷大将軍がどんな職なのか、詳しく掘り下げてみよう。
■蝦夷征討のための職
建久3年(1192)、源頼朝は念願の征夷大将軍に就任した。実は、寿永3年(1184)にも木曽義仲が授けられていた。これまで、頼朝が征夷大将軍に就任したときを鎌倉幕府の成立とみなしていたが、現在では文治元年(1185)が有力視されている。
征夷大将軍が武家の頭領であり、幕府のトップであることは知っているが、その淵源については、あまり知られていないのではないだろうか。以下、詳しく解説してみよう。
かつて朝廷は蝦夷を征討するため、たびたび軍勢を派遣していた。征夷大将軍とは、蝦夷を討つときに任じられた臨時の職で、総指揮を担っていた。
最初に任じられたのは多治比県守(たじひのあがたもり)で、養老5年(721)のことだった。そのときは征夷大将軍ではなく、「征夷将軍」と称されていた。
延暦13年(794)、大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)が征夷大将軍に任じられ、以降も何度か征夷大将軍が任命された。最後に任じられたのは文屋綿麻呂(ふんやのわたまろ)で、弘仁4年(813)のことだった。この頃、蝦夷の平定が終わり、派遣する必要がなくなったからだといわれている。
■武家の頭領を示した征夷大将軍
9世紀初頭以降、征夷大将軍が任命されることはなかった。しかし、元暦元年(1184)、木曽義仲が打倒平家の兵を挙げ、見事に平家を都から追い払った。その直後、義仲は朝廷から征夷大将軍(征東大将軍とも)に任じられた。
ここで注意すべきは、征夷大将軍が蝦夷征討の総指揮官を意味しなかったことだ。義仲は平家に代わる武門の頭領として、あえて権威ある征夷大将軍を望んだといわれている。
■征夷大将軍を熱望した源頼朝
義仲は征夷大将軍になったものの、同年に源義経の率いる軍勢に敗れ、無念にも戦死した。朝廷は義仲を討った源頼朝の軍功を称えるべく、「征夷将軍」を授けようと考えた。しかし、頼朝は過分な望みはないとの意向だったので、見送られたのである。
建久3年(1192)3月に後白河法皇が崩御すると、頼朝は征夷大将軍に任じられた。征夷大将軍は坂上田村麻呂が任官したこともあり、吉例とされたからである。
なお、長らく後白河が頼朝の征夷大将軍就任を拒んだといわれてきたが、近年の研究では疑問視する向きもある。以降、征夷大将軍は武家の頭領のシンボルとなり、幕府を開くための要素の一つとなったのである。
■まとめ
頼朝は後白河から東国の経営権を認められ、さらに諸国に守護・地頭の設置を認められるなど、政権の基盤を着々と整備していた。権大納言・右近衛大将に任じられたこともある(のちに辞退)。しかし、頼朝は武家の頭領にふさわしい職を望み、ふさわしいと思われる征夷大将軍を選んだのである。