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どうやって築城したのか! 豊臣秀吉による墨俣一夜城の真相

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
豊臣秀吉。(提供:アフロ)

 各地で建物の建築工事などが行われているが、人件費、材料費などの高騰で悲鳴を上げているという。時間の経過とともに値上げが進むので、当初の見積もりでは追いつかない。かつて豊臣秀吉はたった一夜にして、城を築いたという逸話があるが、その真相はどうだったのか確認しよう。

 若い頃の秀吉には、数多くの逸話がある。冬の寒い日、織田信長の草履を懐で温めたというのは、その一つであろう。しかし、その多くは後世に成った二次史料に書かれたもので、信が置けないことが多い。実は結論を先に言うと、岐阜県大垣市に築城された墨俣一夜城も、その一つなのである。

 永禄3年(1560)、信長は桶狭間の戦いで今川義元に勝利すると、続けて美濃の斎藤氏の攻略に着手した。当時、斎藤龍興の拠点は、難攻不落と称された稲葉山城(岐阜城:岐阜市)だった。信長は稲葉山城を落とすため、重臣に交通の要衝の墨俣に出城を築くよう命じた。

 ところが、信長の命を受けた重臣の佐久間信盛、柴田勝家は築城に挑んだが、敵への妨害に遭ったこともあり、ことごとく失敗したのである。このピンチに際して、自ら墨俣城の築城を志願したのは、まだ新参者の秀吉だった。しかも秀吉は「7日で完成させる」と言ったのだから、まったくの驚きである。

 永禄9年(1566)6月、秀吉は約束通り、墨俣城の築城に着手した。むろん、敵兵は城が完成しないように、妨害を行った。しかし、秀吉は戦いが雨で中断した機会を見計らい、材木を川の上流から流すと、すぐに組み立てるという方法を採用し、約束より早くたった一夜で城を完成させた。しかも、墨俣城は天守を備えた立派なもので、決して粗末なものではなかったと伝わっている。

 秀吉は一夜で墨俣城を築いた功によって、信長から金・銀などの褒美を授けられた。これが、秀吉の大出世のきっかけになったのである。はたして、墨俣一夜城は史実とみなしてよいのだろうか。

 墨俣一夜城は、江戸時代後期に成立した『絵本太閤記』に書かれたものである。ただ、『絵本太閤記』は脚色が多いので、歴史研究の史料としては使えない。単なるフィクションである。

 尾張の土豪・前野家の動向を記した『武功夜話』には、墨俣一夜城について詳しく記録されている。しかし、『武功夜話』自体が創作された史料であり、その記述内容には信が置けない。

 編纂物の『甫庵太閤記』には、秀吉が美濃の新城に入ったと書かれているが、に一夜で城を築いたとの記述はない。むろん、『甫庵太閤記』も史料としては信用できない。

 墨俣一夜城の話は、たしかな史料にまったく取り上げられていない。したがって、現在は秀吉が信長の美濃侵攻に従ったのは事実としても、墨俣一夜城はなかったという説が有力になっている。

 あるいは、秀吉が急いで作ったのは砦くらいの小規模なもので、とても城と呼べるような規模ではなかったように思える。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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