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菅野の東海大時代は、3連続完封どころじゃなかったぞ(その2)

楊順行スポーツライター
2010年、世界大学野球選手権での菅野智之(写真:YUTAKA/アフロスポーツ)

東海大に進んだ菅野智之は、2年の夏には日米大学野球に出場し、東京ドームで153キロを計時。大学球界屈指の好投手となっていく。結論からいうとね……と、菅野が切り出した。

「大学、という環境が自分に合っていたと思うんです。高校では、自分で考えて練習をするといっても限度がありますが、大学では本人の主体性がすべて。手を抜こうと思えばいくらでも抜けるし、やろうと思えばいくらでも練習できる。そのために、“大学ではお手本になる先輩を見つけろ”といわれていたんですが、すばらしいお手本がいらしたんです。入学したときの4年生で、部屋も同じだった中西(大器)さん(2010年まで新日本石油ENEOSでプレー)です。

とにかく、その姿勢がすごい。ランニングでは必ず先頭を走りますし、部屋にいても“いっしょに走るか?”と誘ってくれる。声をかけてもらった以上は、こっちも手を抜けません。1年のときは、中西さんについていけば間違いない、中西さんの姿勢を真似よう、真似ようと思っていました。中西さんが卒業してからも、自分が主戦となることがわかっていたので、自覚を持って同じ姿勢で練習しています」

さらに。速いタマを投げるには、速いタマを投げたいとずっと願い続けること……そういいきる菅野にとって大いなる刺激になったのは、2年のとき日本代表に選ばれたことだ。やはり代表に名を連ねた二神一人(元阪神)とのキャッチボールが衝撃だった。軽く投げているのに、手もとでバーンとくる。その伸びが、怖いくらいだった。もっとも、日米野球のあとに開催されたアジア選手権で、菅野自身も抑え役としてベストナインを受賞している。「やはり、ただ者じゃないですよ」というのは東海大・横井人輝監督(当時)だ。

「普通、大学でこれだけ伸びるヤツはいません。だけど菅野は試合ごと、大会ごとに成長している。むろん本人の努力もありますが、それだけ観察力と創意工夫、頭のよさがあるんです。それと、偉大なおじいさん、伯父さんというプレッシャーを、自分のモチベーションに転化できていますね」

どうしてそこまで伸びるんだ?

その代表選出以降の菅野の成績を列挙すると、2年秋は5勝を挙げ、MVP。筑波大との1回戦では、延長11回参考ながら、20奪三振という連盟新記録を達成している。3年時は、春秋通算11勝無敗で、圧巻は秋の防御率0.14だ。大学選手権の準々決勝では、7回参考ながら同志社大をノーヒット・ノーランに抑えてもいるし、世界大学野球選手権では自己最速の157キロを計時した。そして大学4年の春には、前年秋から継続した連続無失点のリーグ記録を53回に、連続自責0の記録は86回まで延ばし、さらにシーズン5完封のリーグタイ記録……。

スピードだけではない。高速スライダーに110キロ台のカーブも織り交ぜ、しかも正確無比な制球と冷静さがある。だから、ここという場面では三振をとりにいき、攻撃にリズムを呼びたいときには打たせて取り、流れをつかむピッチングもできるのだ。キリがないのでこのへんにしておくが、それほど、菅野の進化は止まらない。

実際に菅野本人も、横井監督に質問されたことがあるそうだ。どうしてそこまで伸びるんだ、と。その進化の根源には、速いタマを投げたいというシンプルだが、だからこそ本能的な欲求があるのではないか。

「確かに、1年だった3年前には、ここまでこれていることは想像がつきませんでした。やはり、代表でプレーした経験というのが大きいですね。同年代のトップのプレーを目の当たりにして、考え方をハダで感じる。実際にナマでボールを見れば、比較して自分はまだまだだと思い、チームに戻ったら“あの人たちを追い抜きたい”と感じながら練習するわけです。

それとベースとして、体が強くなったことがありますね。高校時代、本格的な筋力トレーニングとは無縁だったこともあるのか、1年秋のリーグ戦からちょっと腰痛に悩みました。そこで体のメカニズムを勉強し、体幹を鍛えるべきだと再認識して。それ以降は走り込み、ウエイト、さまざまなメニューに取り組みました。それも、むやみと高い負荷をかけるだけではなく、すべてがピッチングにつながることを意識し、また上半身と下半身、意識的に右と左、バランスを均整に保つようにしたんです。

結果として、体重は入学時から15キロほど増えましたし、筋肉量を計ると僕は左右差がまったくなく、対称なんです。ほとんどの選手は、利き腕側の筋肉量が大きいものですが、このバランスのよさは投げていても実感します。それも、1年から意識して取り組んできた財産だと思いますね。

いまの理想は、どれだけ力感なく投げられるか。いい状態で投げられたときは、チームメイトがいうんですよ。“今日は、軽く投げていただろう?”って。そう見えたら、調子がいいときですね。いまは、僕が二神さんに感じたように、僕とキャッチボールした相手が“伸びが怖いくらいだ”といってくれます」

忘れていた。最後に、付け加えておく。菅野の祖父は、三池工高と東海大相模高を率いて全国制覇を果たした故・原貢氏。伯父は、東海大相模高、東海大、巨人を通じてスーパースターであり続けた原辰徳・前巨人監督である。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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