「脱力系」独立リーグの元エースが、大ベテランになった「同級生」・青木宣親と後輩たちに送るエール
電話口の向こうの声は存外元気そうだった。聞けばつい先日職に就いたと言う。「自由人」として20、30歳代を謳歌していたが、不惑を前に定職に就くことにしたようだ。
塚本浩二の名を知っている野球ファンは多くないだろう。育成選手としてプロ野球(NPB)に2シーズン在籍、ファームで1勝を挙げたのみに終わった。現役時代は、そのピッチングより異色の経歴の方が話題を呼んだ。大阪府立のトップ進学校から国立の神戸大学という学歴は、おおよそプロ野球選手のそれではない。高校でも大学でも彼が創設以来初の「プロ野球選手」である。
彼が四国九州アイランドリーグ(当時・現四国アイランドリーグplus)の香川オリーブガイナーズからドラフトで指名されたのは、2008年の秋だからもうひと昔以上前のことになる。草創期の日本の独立リーグにおいて彼はトップに君臨していた。
「僕なんか全然。今の方がレベルは上がってますよ。ピッチャーなら140、50キロは普通に出していますから。それでも指名を受けるのは難しいですね。実力だけじゃなく、チームに必要なピースかどうかっていうのも大事な要素ですから。それに年齢も大きいですね」
彼が野球界を去ったのは、2011年。2年間プレーしたヤクルトをリリースされた後、もう1シーズン、アメリカにプレーの場を移した。プロ球団のスカウトの前でプレーする「トライアウトリーグ」に参加し、現地独立リーグ球団からオファーを受けた。しかし、シーズン前のキャンプに参加したものの、開幕ロースターに残ることは叶わなかった。
帰国後、なすすべもなく日々を過ごしているところに、古巣から声がかかり、後期優勝を争っているチームに復帰した。しかし、そこで自分にもはや力が残っていないことを悟ると、フィールドを去ることを決意した。
そして、今年、彼は9年ぶりに野球界に復帰した。福井に誕生したルートインBCリーグの新球団、ワイルドラプターズの広報担当スタッフとして球団のユーチューブ番組を作成することになった。カメラ片手にチームに帯同する中、独立リーグからNPBへの扉を開けた先輩として選手にアドバイスすることもあったという。
そんな彼が、ほどなくチームを去ったことが気がかりで年の瀬も迫った頃になって連絡をとったのだが、どうやら体調を崩して退団したようだった。そして、思うところがあったのか、彼は今サラリーマンとして再出発しようとしている。
国立大から独立リーグという異色のキャリア
「学校始まって以来のプロ野球選手」とあって、母校では英雄視されていたのではないかと話を向けると、この物静かな男は、はにかみながら首を振る。
「卒業と同時にプロ入りじゃないんでね。同窓会なんかで、『あいつどうしてるの』っていう中で、『プロ野球選手やってるよ』みたいな感じですよ。甲子園のスターだったクラスメートがドラフト1位とかとはちょっと違うかもしれないですね」
普通の真面目な学生が、真面目に勉強し、進んだ進学校で真面目に野球に打ち込み、誰もがうらやむ国立大学に進学。そこでも真面目に野球に取り組んだ結果、チームは野球エリートの集まるスポーツ校に伍するまでになり、自らはエースとしてマウンドに立った。しかし、ここまでの人生の中で、「プロ野球選手」という将来像は自分の中に浮かぶことはなかったと塚本は言う。
それでも、就職先も、野球を続けることを念頭に探した。しかし、エースとはいえ、国立エリート大の選手に都市対抗に出場するような強豪チームがスカウトに来るはずもなく、自ら実業団チームに売り込んだ。プロ野球選手も何人か輩出しているワイテック(野球部は2013年に廃部)という自動車部品の製造会社に職を得たが、現役中はほぼ野球に専念の強豪チームとは違い、社業優先で、練習はフルタイムの仕事の後だけだった。国立大出の塚本は、将来の幹部候補とみられたのか、他のチームメイトが野球部員定番の工場での現場作業をするのを尻目に、入社半年で事務方への配置転換を命ぜられた。
エリート街道を歩んでいた塚本だったが、自らその道から降りていった。入社2年目のシーズン後のことだった。この年にできた独立リーグ、四国アイランドリーグのトライアウトがあると聞いて、会社に辞表を提出したのだ。上司たちは、幹部候補生の突然の辞意に戸惑い、「先の人生を考えろ」と諭したが、塚本の決意は変わることはなかった。
「社業優先の野球部だったので、もうちょっと野球をやる時間をたくさん欲しいなというのがあって…。社会人野球に入ってから、手ごたえも出てきたんです。アイランドリーグができて、もしかしたら独立リーグに入ればプロ入りの可能性があるかなって。小さい望みにかけてというような気持ちだったんですけれども」
退路を断つつもりで、会社を先にやめてからのトライアウトだったが、見事合格。香川への入団が決まった。
独立リーグでの野球漬けの日々は、着実に塚本の才能を伸ばしていった。入団初年度から防御率1点台を記録すると、2年目にはエースとして10勝2敗、3年目は14勝3敗1セーブでMVPに輝き、独立リーグを代表する投手となった。流れるようなアンダースローから放たれる球は決して速くはなかったが、正確なコントロールの前に打者たちは翻弄された。塚本の在籍中、チームはリーグ3連覇。2007年から始まったBCリーグとのチャンピオンシップも2年連続で制し、塚本はまさに独立リーグ界のエースとして君臨した。2008年ドラフトでヤクルトから育成2位指名を受けるまで、彼の防御率は1点台を割ることはなかった。
「調査書が来たんで、可能性は少しあるなとは思っていたんですけど…。ガイナーズには3年いたんですが、1年目、2年目に、すごい有望な選手がたくさんいて、調査書も来ていたけれども、やっぱり指名はされないというのを見てきていたんで、当日まで本当に指名されるかどうかというのは分からなかったですね」
晴れ舞台の入団会見。独立リーグの主力だったこともあり、インタビューには慣れていたこともあり、緊張はさほどしなかったと言う。それでも詰めかけた報道陣の多さにNPBという「真のプロ」を感じた。
戸惑ったプロの世界
27歳にしてようやくかなえたプロ野球という夢の舞台だったが、「普通の学生」だった塚本にとってはまさに「見知らぬ世界」だった。
プロ野球の舞台に立つ選手のほとんどすべての者は、ものごころついた時から、野球三昧の生活を送ってきている。そういう中で、各学校、各地域で名を馳せた選ばれし者が集まるのがNPBという舞台なのである。当然のごとく、プロ入りの時点で、お互い名前くらいは知った仲という者がおり、多くの場合、世話を見てくれる先輩がいるというタテのつながりを持っている。
その点、塚本は全くの「よそ者」だった。甲子園とは無縁の文武両道の高校時代を送り、国立大学へ進むというおおよそプロ野球選手に似つかわしくないキャリアをたどってきた塚本は、野球そのものよりプロ野球界という「空気」に戸惑った。
「僕は、学校の勉強もやりつつ、部活をやってという感じで学生時代を送ってきましたから。周りはリトルリーグから強豪高校に進んで、甲子園に出て、高卒とか大卒でプロという人がほとんどでしょう。野球で進学、就職をしてきた人が、もうみんな集まって…。そんな感じでしたね。話が合わないとまではどうですかね(笑)。最初は多少あったかもしれませんね。学生時代に大きな大会に出ていないので、ベンチとかで周りが『あいつはすごかった』みたいな話をしていると、もうついていけない(笑)。みんなは同世代で『こいつがどうだった』とか、『あいつらはすごい仲いいんだよ』、『あそことあそこが友達で、俺もあの選手とは知り合いで』となりますからね。彼らはずっとトップでやってきて、自分の学校だけじゃなくって横のつながりも強いですから。彼らは県の選抜チームで一緒だったり、プレーしている間に、他のチームにも名前を覚えてもらえるし、どこかの段階で一緒にプレーしていたりしますから。その点、僕なんか全然知り合いがいませんでした。でも、それもよく考えれば、社会人野球の時から、そういう感じがしないでもなかったですね」
良くも悪くも、学生時代、他の選手のように、野球に全てを捧げていたというわけでもなかったこの男からは、アスリートにありがちなギラギラした貪欲さを感じることはない。
塚本は、寮に入ることになった。ここでも彼は孤独だった。なにせ27歳というオールドルーキー。先にプロ入りしていた同年代の選手の多くは一軍に上がっている。同期のほとんどは5歳以上年下で、周囲との年齢差もかなりある。ついこの間まで勉強そっちのけで野球オンリーの生活を送っていた野球小僧も少なくない。やんちゃ坊主の集まる学生寮に一流大学卒の先生が放り込まれたようなものだ。当然日常会話もなかなかかみ合わないだろう。
「野球の話は普通にしていたので、孤立していたわけではないですけどね。でも、馴染めてはいなかったかもですね」
サラリーマンで言えば、中途入社みたいなものだ。初めてのキャンプ。誰と話すのにも気を使う。野球界はタテ関係の社会。敬語か「タメ口」かは、学生時代の学年で決まる。先に入団していた選手でも、学齢か下の者は、敬語で接してくれる。大卒の選手の場合は浪人した者もいるためややこしく、在学時の学年が基準となる。初めてのキャンプ、塚本には選手年鑑が欠かせなかった。
そんな中、声をかけて来てくれた主力選手がいた。
「同じ学年だよね」
この時点で4年連続打率3割をマークし、のちメジャーリーグで活躍することになる青木宣親だった。「タメ口」でいいはずの同級生だったが、塚本は思わず敬語を使ってしまった。
「その後は、向こうは一軍、こっちは二軍。接することもなかったので、話すことはほとんどなかったですけど。今から思えば写真くらい撮っておけばよかったですけど、そういうわけにはいきませんよね(笑)」
育成選手のまま短いプロ生活を終えた塚本が、同学年のスター選手と自分を重ね合わせることはない。それでも、年々少なくなっていく、同世代の選手たちのことは時折頭をかすめる。
「青木は、まだバリバリやってますけど。岩隈も引退したし、あとは鳥谷(ロッテ)と糸井(阪神)くらいですか。頑張ってほしいですね」
引退後の波乱万丈の人生
現役時代の思い出はと問うと、
「そうですね。中田(翔・日本ハム)選手に大きなホームランを打たれました」
と笑う。敵なしだった独立リーグとは違い、ファームとはいえ、NPBのマウンドはしょっぱかった。
先述のように、ヤクルト退団後、もう1年プレーした後、ユニフォームを脱いだ。野球はやり切ったし、なによりも年齢を考えると、次のことも考えねばならない。その時、塚本は30歳になっていた。「同級生」の青木が、メジャーの舞台に旅立ったと同時に、塚本は第2の人生を歩み始めた。
チームの本拠、香川で教育関係の会社に就職。ここで役に立ったのは、「元プロ野球選手」ではなく、「国立大卒」の肩書きだった。
「就職したのは学習塾を経営していたんで、ある程度、勉強をしたことのある人じゃないと、多分採用しづらかったんじゃないか思います。直接生徒に何かを教えるというような職種ではなかったんですけれども」
香川でサラリーマンを4年務めた後、福井に移り住んだ。若者の流出に悩む県が募集した体験移住に手を挙げたのだ。家賃全額補助の期間を過ぎた後も、福井に住み続けていた塚本に声をかけたのが、新球団のオーナーとなった大学の先輩だった。新球団の立ち上げに協力してほどなく、球団を去った塚本は、思うところがあったのか、今、人生三度目のサラリーマン生活をスタートさせている。
38歳。学生時代の同期には管理職になっている者も少ないないだろう。塚本はそれも気にならないという。「自分だけのオリジナルな人生」をのんびり歩んでいる。あれだけのめり込んだ野球にもすっかり縁がなくなり、福井球団に参加する直前まではボールを握ったこともなかったと笑う。
「福井球団にお世話になる前に、球団オーナーがやっているユーチューブチャンネルで『元プロ野球選手』としてマウンドに登ったんですけど、むっちゃ練習しました(笑)」
古巣のヤクルトについても順位表をチェックする程度だという。
「一応、球団からはOBとして連絡はいただくんですけど、集まりには参加したことないですね。こっちの方にも試合に来たのかなあ。来たとは思いますが、見に行ったこともないですね」
独立リーグを含め、プロ野球の世界に一度でも身を置いた者には、野球から離れられない者も多い。NPBまで手の届かなかった者でも、引退後、なんとか野球に携わる仕事をしたいと、コーチングを生業にしていることも多い。自分のキャリアを生涯生かしたいと思うのはある意味当然のことである。しかし、過去にはとらわれることなく、「脱力系」のセカンドキャリアを送る塚本を見ていると、ある種の清々しさを覚える。
そんな塚本に、独立リーグで夢を追いかける「かつての自分」はどう映るのだろう。
今年も7人の選手が独立リーグから重い扉を開けてNPB入りをかなえた。塚本がかかわった福井にもドラフト指名が有力視されていた選手がいたが、結局その名が呼ばれることはなかった。その選手には塚本もアドバイスを送っており、気にはかけていたが、それでも実際にNPBの舞台に上がったその目は冷徹だった。
「やっぱり、指名する側の需要もありますし、年齢もポイントになってきますから。仕方ない部分はありますね」
夢叶わなかった選手の進路は様々だ。20代後半に差し掛かった多くの者はセカンドキャリに進むが、中には、あきらめきれず独立リーグにとどまる者もいる。そういう選手に対して、塚本は自身の経験を踏まえて、こう言った。
「独立リーグで何年もプレーしているといろんなことを考えられなくなってくるんだろうなとは思います。僕も同じ立場だったから分かります。そういう中で、来年、また来年って続けるというパターンも出てきます。そういう選手には、変な言い方になりますが、野球にちょっと、依存しちゃっているというところもあると思うんですよね。僕がいた時は、最初、四国の4球団しかなかったんで、100人ぐらいしか独立リーガーにはなれませんでした。今は球団数も増えて、ある程度実力があれば、いつまで続けることができます。でも、どこかで野球を辞めなければならないのも現実なんです」
自分に言い聞かせるように塚本は厳しくも暖かいエールを後輩たちに送った。