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【戦国こぼれ話】丹波の武将・荻野直正は、なぜ織田信長と対立したのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
荻野直正ゆかりの地にある兵庫県丹波市の白毫寺。(写真:イメージマート)

 兵庫県の氷上高校の野球部員が、荻野直正の居城・黒井城でランニングをし、足腰を鍛えているという。こちら。ところで、なぜ荻野直正は織田信長と対立したのか、その点を深掘りしてみよう。

■織田信長の登場

 丹波を制圧して日の出の勢いの荻野直正だったが、行く手を阻む勢力があらわれた。織田信長である。永禄11年(1568)、織田信長は足利義昭を推戴して上洛し、畿内の政治情勢は一変した。

 ところが、当初の直正は信長に抗することなく、素直に従った。永禄13年(1570)3月、信長は赤井忠家に対して、家督の安堵状を与えた。これこそが臣従の証であろう。これにより、赤井氏の丹波奥3郡の支配が保証されたのである。

 年未詳ながら、12月24日付で今井宗久が直正と播磨の別所重棟に宛てた書状が残っている(「今井宗久書札留」)。内容は、まず但馬の山名祐豊が美濃の信長のもとに参上して、但馬一国が安堵された旨を伝えている。

 そして、直正と重棟の2人に対して、丹波と播磨が但馬の隣国であることから、信長のために奔走することが肝要であると命じた。しかし、直正は信長の意に反して、信長に与していた山名氏と交戦に及んだ。

 元亀2年(1571)以降、直正は但馬の山名祐豊とたびたび交戦に及び、撃退することに成功した。しかし、実際に先に戦いを仕掛けてきたのは、山名氏の方だったことが史料で確認できる(「岡村文書」)。

 一時、直正は山名方の太田垣氏が守る竹田城(兵庫県朝来市)を占拠した。その近くには、日本有数の銀の産出量を誇る生野銀山があった。直正と山名氏との戦いは、その争奪戦にほかならないであろう。

 一方、信長と義昭は二重政権化において、互いに助け合いながら政治を行っていた。しかし、2人の関係は徐々に悪化し、元亀4年(1573)1月になって決裂した。2人の抗争が表面化すると、直正は義昭に与した。

 一時、直正は義昭方として京都に出陣する風聞が流れたが、結局は噂だけに止まり実現しなかった。

■織田信長と直正の対立

 以来、直正は反信長の旗幟を鮮明にした。天正元年(1573)8月、義昭は直正に書状を送り、梅仙軒なる者が西国に下向するので、路地を問題なく通ることができるよう依頼した(「赤井文書」)。

 梅仙軒は、義昭の使者として毛利氏のもとに向かったのだろう。義昭は、直正を頼りにしていたのである。義昭が毛利氏の庇護を求め、備後鞆(広島県福山市)に向かったのは天正4年(1576)のことである。

 同年8月、羽柴(豊臣)秀吉は赤井五郎助(忠家)に対して、松尾社領雀部荘(京都府福知山市)の押領(荘園への侵略行為)を止めるよう命じた。これは、秀吉が京都支配を担っていたので、松尾社の要請を受けて命じたものにほかならない。

■武田勝頼と直正の連携

 注目すべきは、天正2年(1574)に比定される2月6日付の武田勝頼の書状である(「赤井文書」)。

 勝頼の書状によると、前年の10月17日直正は勝頼に書状を送り、勝頼は12月21日に到着した直正の書状を読んだという。直正の書状は使者が携えたもので、勝頼に口頭で説明もしたという。勝頼の書状は、その返事なのである。

 勝頼は直正が信長に敵対して戦っていることについて、その武勇と戦功を褒め称えた。そのうえで、しばらくしたら信濃の境の雪も解けるであろうから、尾張・美濃に攻め込み信長と合戦に及ぶので、ご安心いただきたいと述べている。直正は勝頼と連携し、信長を討伐しようとしていたのだ。

■むすび

 こうした動きが後世に伝わり、『甲陽軍鑑』が荻野直正を「名高キ武士」と評価したのかもしれない。その後、直政と信長の対立は、いっそうヒートアップするのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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