センバツ21世紀枠候補の磐城には、「小さな大投手」のレジェンドがある
21世紀枠の東北地区の候補校である磐城は、福島県屈指の進学校でもある。甲子園にも春夏9回の出場があり、通算7勝を記録している名門だ。県立名門校のご多分に漏れず、直近の甲子園出場は25年前の1995年夏にさかのぼる。それでも、2015年にOBの木村保監督が就任すると、その年から春季東北大会に出場するなど復活気配。昨年秋の東北大会では、46年ぶりに2勝してベストに8入り、日常の地域での活動なども評価されて21世紀枠に推薦された。
そして……もし、届いたセンバツ切符の裏が磁気だとしたら、71年夏の伝説が書き込まれているはずだ。決勝では、桐蔭学園(神奈川)に0対1で惜敗したものの、東北勢の初優勝にあと一歩と迫る準優勝。そのときのエースが、田村隆寿さんである。
小さな大投手で準優勝
「投げた瞬間に、しまった! と思いましたよね」
71年8月16日、桐蔭学園との決勝をそう振り返った。大塚喜代美との投手戦で0対0のまま迎えた7回裏、桐蔭は2死ながら走者三塁とし、打席には峰尾晃が入った。突然やってきた夕立が、いっそう激しくなる。初球、シンカーが鋭く落ちてストライク。2球目は、ファウル。3球目、まっすぐで1球外す。そして、1ボール2ストライクからの4球目は、内角にシンカーを落として勝負……のはず、だった。シンカーは、魔球。田村さんが、甲子園の33イニングをここまで無失点に抑えてきた大きな武器なのだ。
だが、勝負にいった魔球が、指にうまくかからない。変化しないシンカーは、内角が得意の峰尾にとって打ちごろだ。
「初球のシンカーは、自分でも驚くくらいのキレだったんです。ただ、2球目がファウルでニューボールになり、3球目が暴投になりそうなくらい、滑った。指になじまないんです。雨のせいもあったでしょう。かといって当時の高校生には、球審にボール交換を要求する図太さはありません。結局、そのまま勝負にいったんです」
田村さんは、伝家の宝刀・シンカーをマスターしたばかり。そもそも、前年の秋まではキャッチャーだったのだ。現に70年の夏は、2年生捕手として甲子園に出場している。だが、新チームが秋の県大会で敗れると、須永憲史監督は中学時代に投手経験のあった田村さんを投手に指名した。中学時代には県大会3位の経験もあるから、ピッチャーのカンを取り戻すのは早かった。
ただ春先からは、練習試合に登板するたびに打ち込まれる。気の強さから、ムキになってまっすぐで向かっていくと、決まって痛打される。なまじ制球がいいだけに、バッターにとっては思うツボだ。例年なら、調整がわりでも優勝するいわき市内の大会ですら勝てず、市内のファンは「イワコウ、どうしたんだ?」とヤキモキした。田村さんが回想する。
「どうしようか……と考えて、5月ころからシュート、というより落ちるシンカーに取り組みました。捕手として、内角に沈むクセ球の有効性をわかっていましたから。私はスリークォーターなので、ナチュラル気味のシュートはもともとあったんです。それを沈めるように深く握るか、縫い目に浅くかけるか、いろいろ試してみました。いまでいうツーシームみたいなものですが、なかなか思うように変化してくれません。これだ! という感触があっても、まったく同じつもりで投げた次のタマが、なんの変化もしなかったり……」
それでも、夏の県大会をなんとか勝ち進むうちに、シンカーは少しずつモノになっていった。東北大会(当時は宮城と福島で1代表)を迎えるころには、自由自在とはいかなくても、半分くらいの確率でシンカーとシュートを意図して投げ分けられた。東北大会の決勝で、古川(宮城)を7回2死までパーフェクトに抑えたのは、シンカーが制御できるようになったからだ。田村さんはいう。
「そう、思うようにシンカーが落ちるようになったのは東北大会ですね。浅めに握るとシュートして、深く握るとシンカーという感覚に自信が持てました」
田村さんの"魔球"で古川を破った磐城は、2年連続の甲子園出場を決めることになる。そして、田村主将が引いた甲子園初戦の相手は……東京の日大一。東京の準決勝では、センバツ覇者の日大三を打ち砕いている優勝候補だ。いまでいえば、大阪桐蔭クラスといっていい。
史上唯一のわずか1失点で準優勝
ただ田村さんは、最後の登場となる5日目第2試合という日程にホッとしたという。東北大会の途中で、右肩に違和感があった。だから、相手どうこうより、試合は少しでもあとのほうがいい。そして実際、肩の痛みが取れた田村さんはこの試合、シンカーとシュートをテンポよく投げ分け、散発5安打の1対0で完封するのだ。続く準々決勝、静岡学園に3対0。準決勝、郡山(奈良)に4対0。3試合連続完封の間、魔球・シンカーは1球たりとも快打されていない。そして決勝も、7回表を終わって0対0である。
だが、峰尾への4球目……ボールが雨に滑り、魔球・シンカーがうまく指にかからない。「しまった!」のあとに田村さんは「落ちないならボールになれ、いや、いっそ当たってもいい」と思った。デッドボールなら少なくとも点にはならないからだ。だが、ややシュートしたボールが峰尾のヒットゾーンに吸い込まれていき、快音に左中間を振り返ると、野手が懸命に打球を追いかけていた。大きな大きな、1点。魔球が初めてジャストミートされ、田村さんはがっくりと右ヒザをついた。だが映像をよく見ると、不思議なことにむしろ、表情には笑みがあった。いま、こう思う。
「笑顔……負けたと思ったのか、むしろホッとしたのか。というのは、われわれのようなチームが勝っちゃっていいのか、という思いがどこかにあったんですよ。部員も少ない、注目の選手もいない。抽選会で日大一との対戦が決まったとき、会場は“気の毒に……”というムードでしたからね。いい試合ができればいいと思っていただけなので、緊張もせずにふだんの野球ができたのかな。
ただ、そういう執着の薄さは、最後の勝負運に見放されたのかもしれません。雨が降ってきたり、勝負ダマが滑りやすいニューボールだったり……そういえば抽選会の会場に入るとき、優勝旗と準優勝盾が展示してあって、監督の須永さんが盾にさわったんですよ。優勝とはいわず、準優勝できればいいな、という願掛けかな。もし、旗にさわっていたら……結果はどうだったんでしょうね(笑)」
この夏の田村さんは、4試合35回を投げて失点はわずか1。165センチと小柄な田村さんは、小さな大投手と呼ばれることになる。春夏のべ190以上の優勝チームが誕生している甲子園。準優勝も同じ数だけあるわけで、そのうちわずか1失点というのは磐城、つまり田村さんたった一人である。